:ルバイヤート第三弾! ペルシア語原詩よりの直接訳ほか6種

ペルシア語原詩よりの直接訳
オマル・ハイヤーム小川亮作訳『ルバイヤート』(岩波文庫 1992年)
オマル・ハイヤーム岡田恵美子訳『ルバーイヤート』(平凡社ライブラリー 2009年)
オマル・ハイヤーム陳舜臣訳『ルバイヤート』(集英社 2004年)
オマル・ハイヤーム沢英三訳「ルバイヤート」(『世界名詩集大成18東洋』平凡社 1960年所収)
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フィッツジェラルド以外の英訳本からの重訳
オマル・ハイヤームジャスティン・マッカーシー英訳/片野文吉訳『ルバイヤット』(ちくま学芸文庫 2008年)
オマール・カイヤム堀井梁歩訳/相場信太郎編『異本ルバイヤット―留盃邪土』(叢園社 1978年)
オマール・カイヤム堀井梁歩訳『ルバイヤット―異本留盃邪土』(南北書園 1947年)
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 今回も少し長くなりますが、ご容赦を。今回の訳本に共通するのは、人生派的な色彩と言えるでしょうか。これはペルシア語原典の詩が人生を詠嘆する直截な表現が多いうえに、小川亮作、岡田恵美子がともに依拠しているヘダーヤト版が詩の内容を重視し章分けしていること、マッカーシー本も詩の含蓄する人生哲学的な内容を強調した編集になっていることが要因と思われます。

 もうひとつは今回の訳者の生き方とか、訳している当時の環境が反映していると考えられます。片野文吉は若くして病魔に襲われるなか翻訳をしていますし、堀井梁歩は貧窮のなか娘と妻を相次ぎ亡くし自らも脳溢血に倒れるというなか、陳舜臣の場合は戦時中で友人たちが次々に戦場へ送り出され自分も死の覚悟をするなかの訳業です。あと純然たる学者は岡田恵美子だけで、小川亮作も沢英三も本業は文学者ではなく外交官のようです。

 そうした人生派に対して、前回取りあげたフィッツジェラルドからの重訳本は、フィッツジェラルドの訳し方自体がエリザベス朝の文飾に凝った表現をしていて芸術派的な色彩が強かったこと、またフィッツジェラルド本の訳者たちには学者が多く、上記片野や堀井のような切実な人生経験をした人が少ないことも、芸術派が多かった要因と思われます。芸術派の代表と思われる森亮は、フィッツジェラルド訳の巧みさを称揚するあまり、オーマーの詩は思想詩で大味で詩としての風味に欠けるとまで主調していますが、それは言い過ぎでしょう。

 人生派ならではで、どこかで聞いたような警句がいくつかありました。「なにを見たとて、一生は夢にすぎぬ」(岡田訳第17篇)、「われらはどこから来てどこへ行くやら?」(以下すべて小川訳・第10篇)、「風とともに来て風とともに去る」(第41篇)、「摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに」(第45篇)。次は余談になりますが、「夜のあけぬまに起きてこの世の息を吸え、夜はくりかえしあけても、息はつづくまい」(第138篇)というのは河野裕子絶唱「息が足りないこの世の息が」を思い出させます。

 フィッツジェラルドも最初を夜明け、最後を夜を歌った詩にするなど詩集としての構成に気を配っていましたが、ヘダーヤトの編集はさらに押し進めていて詩の内容ごとにまとめて章を作って標題までつけています。「解き得ぬ謎」「生きのなやみ」「太初のさだめ」「万物流転」「無常の車」「ままよ、どうあろうと」「むなしさよ」「一瞬(ひととき)をいかせ」(小川亮作訳)の8章ですが、上田敏ハイヤームの世界観をさらに次のようにまとめています。「矛盾を矛盾とし、懐疑を懐疑とし、偏に心の誠を失うまいとする抒情の声であって、第一に反抗の叫、第二に享楽の教、第三に絶念の悟、この三者が全曲の伴随楽旨(ライトモチフ)となっている」(片野文吉訳本の序文p13)。

 今回読んだ本の詩形の特徴を見ると、原詩から訳している人は陳舜臣を除いてすべて口語訳で、陳舜臣の文語も柔らかい感じの文語です。マッカーシー訳が散文詩の形なので片野文吉訳も散文に訳していますが、これはかなり重厚な文語で訳されています。堀井梁歩訳は後述しますが、文語口語が入り混じった形です。

 ここで、文語と口語についての印象を少し述べてみますと、長らく文語のほうが、簡潔さ、リズム感、断定感、警句風で賢そうに見える、非日常性などから、詩に向いた文体だと思っていましたが、今回の読書を通じて、口語の持つすばらしさが理解できたように思います。口語の持ち味は、やはり我々の世代に取っては意味の明瞭性、感情の直截表現、純真さ、柔らかさ、詠嘆感、親しみなどが数えられます。戦前戦後を通じて、文語から口語へと大きく舵を切ったのは、「調子から意味へ」と大ざっぱに捉えられますが、重要な意味があったのだと今は思えるようになりました。


 今回は元本がバラバラなので、共通している詩を探すのが難しく、とくに堀井梁歩訳は他の本と一致する詩がほとんどなかったので難航を極めました。堀井訳を除き、5種の訳本に共通する詩を6篇ほど見つけたので、その中でいちばん味わいのある下記の詩を比べてみます。若干原本に違いがあるようにも思えますが。


小川亮作訳(第50篇)
われらは人形で人形使いは天さ。/ それは比喩ではなくて現実なんだ。/ この席で一くさり演技(わざ)をすませば、/ 一つずつ無の手筥(てばこ)に入れられるのさ。


岡田恵美子訳(第41篇)
それは比喩ではなく現実に、/ われらは人形、そして天は人形使い。/ この生存の絨毯の上で小さな役をつとめ終わると、/ 虚無の小箱のなかに、われらは永遠におちていく。


陳舜臣訳(第75篇)
かく言うはまことなり偽りにあらず/ われらは傀儡(かいらい)にして天は演出家/ 存在という舞台にいと小さき芸をなし/ 一人また一人虚無の箱へ入る


沢英三訳(第70篇)
たとえじゃない、ほんとうの事だ/ われわれは戯れの一かけらであり/ われわれは生の将棋盤の上で踊っているんだ/ そして一人一人無存在という箱の中へもどる


ジャスティン・マッカーシー英訳/片野文吉訳(第61篇)
我等はこの下界にては天の車輪のままなる傀儡に過ぎざるなり。是れ実に真理にして比喩にはあらず、我等は真(まこと)に人の世の将棋盤上なる片々たる駒に過ぎず、我等は終(つひ)に其処を離れて一つ一つ虚無の墓に入るべきのみ。


 ハイヤームがなぜこのような詩を書くにいたったのか、小川亮作の解説などから考えると、ハイヤームが科学者として、人間の自我にはかかわりなく、生前死後永劫に存在する自然という客観的リアリティの認識を経て、唯物論的自然観を抱いていたこと。またハイヤームはイラン人であり、イスラム教は異民族のアラビア人の宗教で、イスラム教に対して民族的感情を交えた深い反感を持っていたこと。アラビア人に滅ぼされた自分たちの古い都の過去の栄華を思い、無常観を持っていたこと。それらが相まって、酒を礼賛し、宿命観、諦観に満ちた詩を書かせたのでしょう。

 今回はまた酒が出てくる詩が多いのが目につきました。イスラムのもとでどうしてこんなに酒浸りになれたのかと思うくらいです。それで酒が出てくる詩の割合を数えてみると、ヘダーヤト版小川亮作訳本では143首中71首(50%)、片野文吉訳本では466首中245首(53%)もありました。フィッツジェラルド訳を見ると、初版は75首中27首、四版は101首中36首、ともに36%でぐっと少なくなります。フィッツジェラルドは酒の歌が嫌いだったので避けたのでしょうか。片野文吉訳本では、泥酔、溺酔のすすめが目につき、ハイヤームが狂暴な酒飲みであるかのような印象さえ受けました。


 それぞれの訳本の特徴を簡単に紹介します。
小川亮作訳
同じヘダーヤト版原典を使っている小川亮作と岡田恵美子とを比べてみると、小川訳の方が感情が吐露され、詠嘆があり、語調がよいように思う。語調がよいのは、訳詩の音数を原詩と同じく13程度に統一し、脚韻もルバーイー風に踏むようにしたところにあるだろう。解説の中で、「13世紀にアル・カズヴィーニイが書いた『アーサール・ル・ビラード(諸国の遺跡)』という本のネイシャプールの部には、ハイヤームが何か「粘土製の案山子」を発明したと記されている」(p114)とあるが、これはゴーレムではないのか。


岡田恵美子訳
ヘダーヤトの章立ての各章の前に、自らのイランでの体験を語る随筆風の文章があるのが特徴。詩の選出の根拠は、ヘダーヤトの詩篇143首と、M・フォルーギーとQ・ガニーの編集になる178首に共通の83首を選出したうえで、ヘダーヤト本のうちで人口に膾炙している17首を加えて100首としたもの。


陳舜臣
ペルシア語原本の写本や印刷本のテキスト比較はいちばん詳しい。が肝心のこの本がもとにした版がどれか明記されていない。フィッツジェラルド訳がもとにしたボドレイアン文庫オウセレイ・コレクション本を中心にいろんな版を折衷したものかと思われる。解説で、ハイヤームがスーフィーか否かが現地では重要な論点になっていること、またオマルが刹那的快楽主義者だったかどうかも問題となっていること。小川亮作訳に対して「音韻を考慮した労作であり、外国の詩を日本語で表現したもののうちで、これにまさるものはないであろう」(p9)と絶賛している。


沢英三訳
フェルドウスィー書店版を中心に、カルカッ版(?ママ)を参照し、真作とおぼしい121首を訳出。


ジャスティン・マッカーシー英訳/片野文吉訳
466篇ものルバーイーを載せていて、日本語で読めるものでは最大。散文詩なので詩行が長い。ハシッシュが出てくる詩が三篇もあった。バタイユの非知を思わせる句「汝若し機智を有せば無智を選択せよ、然(さ)らば汝は永久の飲酒家より酒盃を取ることを得べし。されど、汝若し無智ならば、無智は汝の享(う)け得べきものならず、そは凡ての無智者は無智の甘美を味うことを得るものならざればなり」(p189)、ニーチェの運命愛を思わせる句「汝の持てるものを以て満足せよ、而して人生の手品師が人間の運命を弄ぶをば静観せよ」(p213)など、唸らせる句が多い。


堀井梁歩訳
この『異本』の2年前に、フィッツジェラルドの初版と四版の対照本を底本とした『ルバイヤット』が出版されているとのこと。この『異本』のもとは、サンフランシスコの「ラボエーム・クラブ」から出版された総数1200のルバーイーを集めた本らしい。その中から101首を選んだと言うが、『ルバイヤート集成』の解説で南條竹則は「ほとんど堀井自身による創作である」と書いている。先にも書いたように、訳のトーンがバラバラで、文語訳が続くと思えば、口語の丁寧語になったり、ときにはべらんめえ調になったり、都都逸の飄逸な雰囲気が出たりと目まぐるしい。とくに後半はタガが外れたように柔らかくなる。例えば第49篇は「無駄な御祈りなんか止せったら/ 涙を誘ふものなんか かなぐりすてろ/ まァ一杯いかう 好いことばかり思出して/ よけいな心づかいなんか忘れっちまいな」(p59)、第83篇「どこをどううろつきまわつてたんだい/ ナニ批判 検討 再認識?/ ヘツ 空しき夢を ありもしない幻を/ エヘツ 酒を忘れたんで みんな虚仮(こけ)の思案さ」(p93)、第90篇「みんな聖経をよみ違へてんのよ/ でなきや常識も智識もないのよ/ 生身(いきみ)の喜びを禁じたり 酒を止めたり/ いいわ ムスタツフア わたしそんなの 大嫌ひ」(p100)といった具合。
『ルバイヤット―異本留盃邪土』(南北書園 1947年)の巻末にある安倍能成の追悼記は、堀井氏の生き方と性格をリアルに描いていて、生前の姿を彷彿とさせる。


 最後に、部分訳の本を除き、今回の一連の読書で独断ですばらしいと思った順に並べてみると、上位は、①小川亮介訳、②矢野峰人訳(四行詩集)、③岡田恵美子訳、④奈切哲夫訳、⑤片野文吉訳、⑥井田俊隆訳の順でしょうか。いまになってみると、片野文吉訳に妙に愛着が湧いてきました。

 今回、三回にわたってルバイヤートを読みましたが、まだ持っていない本がたくさんあり、入手し難い大住嘯風、蛎瀬彦蔵、増野三良、荒木茂小川忠蔵訳は別として、安藤孝行黒柳恒男、久留勝、斎藤久訳本は、オークションなどでもたびたび見かけますので、そのうち手に入れてまた書いてみたいと思います。