:柳宗玄『虚空散華』『黒い聖母』の二冊

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柳宗玄『虚空散華―生命のかたち』(福武書店 1986年)
柳宗玄『黒い聖母』(福武書店 1986年)

                                   
 この二冊は、『虚空散華』「あとがき」で記しているように、老齢に至った著者が「新しい時が来ると、若者は一年を得、老人は一年を失う(古代中国の言葉)/p272」という感慨のもとに、それまで雑誌などに掲載していた論文をテーマ別にまとめたもの。同じ出版社から同じような装幀で出されています。

 『虚空散華』の方が先に出ていますが、どちらかというと哲学的な興味に導かれた論文が目立ち、『黒い聖母』は色彩の考察を中心とした美術史の論文が集められています。いずれも前回(8月31日記事参照)の二著と同様、深い洞察に満ち含蓄に富んだ文章が随所に出てきます。


 『虚空散華』では、鳥が自然を維持する役目を果たしていることに注意を促し、異種多様な鳥たちが一つの樹に群れ集う風景を愛で、人間に対し範とすべしと説く「鳥」、かげろうのはかない命から説きおこし、種としての生物の長生き度や、地球誕生を元旦とすれば人間が誕生したのは大晦日の最後の30分という話を経て、最後は質的な時間こそが大事だとする「かげろうの命」、旧尺度がいかに人間の生活に根ざしたものであるかを説いた「尺取虫の教え」、大きさを軸として芸術を語る「『大』ということ」、芸術における稚拙さの意味について考える「『稚拙』の再発見」「現代プリミティフの祖先」など、当時だれもがあまりまともに取り上げなかったに違いないテーマが並んでいます。

 後半は、やや美術史よりで、花とキリスト教美術の関係(「キリスト教美術における花」)や、芸術を精神的空間として見た場合の色彩や文様、象徴的な事物の役割(「虚空散華」)、装飾が果している言語的宗教的な意味 (「装飾ではない装飾について」)について考察しています。

 哲学的な重い主題以外にも、動物の尻尾の役割を考えた「しっぽ」、海外での調査旅行中の心温まる出会いを描いた「ある連鎖作用」、若干好事家向きの軟らかめの「中世にひそむエロス」、季節感など自然に守られた古い文化が亡くなりつつあることへの哀惜の情を吐露した「滅びてはならぬもの」など、味わい深いエッセイもあります。


 『黒い聖母』では、本のタイトルともなった冒頭の一篇が、黒マリアの黒の意味について洞察していますが、引き続いて、赤(「色彩象徴の系譜」)、青(「象徴色としての青」)、黄(「地の色」)、白(「白の思想」)の様々な色について、その語源的な意味を探ったり、幅広い美術史的な知識をもとに色が象徴するものを考えたりした後、具体的な素材を取り上げ色の果たしている役割を探求しています(「『ベアトゥス黙示録』における色彩」「敦煌莫高窟」の二篇)。

 他に、色のない白と黒の芸術として、「拓」と「樸」が取り上げられ、色を排除しようとする性向の背後にある世界観を中国の道家や西洋中世のシトー修道会に見たり、また拓に近い存在として版画を語っています。

 華美なものを排し、色彩や図像を忌避するシトー修道会や、人為を加えることを不可とし五色を否定する道家の行き方は、今の世の中から見て魅力的に感じるところもありますが、それはそれでもし世の中がそれ一色になり、その状態がずっと持続するとしたら、凡人の私の場合は息が詰まってしまいます。やはり現世を肯定した上で、たまに素朴に帰るというのが精神を安寧に導く最善の方法だと思います。

 そういう意味では、孔子が徳を説きながら、一方で、衣服や食事についてこまごまと指示しているのは面白く感じられました。


 恒例により印象に残った文章をご紹介します。

天下が暗黒となって大いに乱れるのは、罪というものが知を好むからである(荘子)/p16

宿駅というものはどこでも、一日の行程が里程を示す尺度なのである/p67

等身像というのは、いわば像高に関する写実主義で、エジプト、ローマ、西洋中世末期、我国では天平時代などに見られ、いずれの場合も単に像高だけではなく、人像としての表現形式についても写実的傾向が強いのは興味ある現象である/p82

なまの人間の尺度ではないという点において、それは観念化されているのであり、そこに、非現実的なものの表現の可能性があらかじめ用意されているといえる/p85

花を愛すべきものとして見ず、むしろ哀れなものとして否定的にこれを見る特殊な立場が、ある地域に生まれた。ユダヤキリスト教の考え方がそれである/p157

人々が心に思い描く楽園には二つの型があり、その一つは花で満ちたもの、もう一つは果樹ゆたかなものである・・・これに第三の類型を加えなければならない。楽園を金銀宝石に満ちたものとする考え方で、仏教では、例えば『阿弥陀経』/p162

正統派の理論家たちが整理制定する教典は、当然のことながら特殊性が強く排他的となるのに対し、一般民衆の素朴な宗教感情は、むしろ普遍的な性格をもつ傾向にあり、宗教の差別を超えた共通性を強く示すものである/p242

以上『虚空散華』より

イスィスはエジプトの代表的な母神・・・椅子に坐り幼児ホルスを抱いて授乳する姿が、古代末期に彫刻や絵によって表現されたが、この姿が後にキリスト教に入り、授乳の姿勢をした聖母像を生んだのではないかといわれる/p43

「黒い石」が御神体とされたのは、黒が地中から植物を生み育てる力、暗黒の母胎から生命を産み出す力の象徴、とみなされているからなのであり、それが後に人間のかたちをとった黒い母神に置き換えられたのであろう/p44

キリスト教・・・光と闇、明と暗、善と悪の対立において支配的なのは前者であり、太初にまず存在し常に主宰的位置にあるのは光なのである。そして闇はまだ光の恩恵を受けない領域であり、そこは悪魔が跳梁し死の支配する暗黒の世界なのである。これに対して、老子の教える玄の理念は、光と闇、有と無の対立以前の原初の状態である・・・以上の問題を色彩に還元して説明すると、黒には二種類あることになる。その一つは、白に対立する黒であり、光に対立する闇の色であり、善に対する悪の色であり、さらに生命に対する死の色である。その二は、それらの対立以前の色、それら万物を生み出す根源的なものの色彩である/p48

版画は基本的に線の芸術であり、・・・それは暗示の芸術であり、余韻の芸術である。その意味では東洋の墨絵にも近いが、木版画の線に比べると、墨絵の筆線は遥かに写実の可能性に富んでいる/p61

西洋には、拓に類する語はない。拓本もない。その理由は簡単である。拓本用の紙がなかったからである。・・・なお西洋人は今日にいたるまで、この極めて魅力のある芸術の一分野に手をつけようともしないのである。拓本の技術は高度なものであって、東洋人の特技だと考えているのだろうか。それならば、われわれ東洋人が西洋に乗り出すべきではないか/p79

それはもはや石の単なる写しではない。それは紙と墨の芸術である。つまり、拓本そのものの美が存在するのである/p84

色彩はその物体を、そしてその物体の性質をも容易に連想させる。血の赤は、また血の温かさ、生命感、あるいは血を流す戦いなどを連想させ、火の赤は、熱、物を焼き尽くす恐ろしい力を感じさせる。染料に関しては、例えばプルプラやコックムなどは極めて高価であり、従ってそれらから派生した色名は、それ自体が高貴、裕福などの象徴となるのである/p113

インドでは創造神ブラフマが赤い身色をもつ。それは太陽のもつ生物育成の力と結びつけられてのことと思われる。仏教では阿弥陀仏の身色が赤であるが、これは西方に沈む太陽の色に他ならない/p129

以上『黒い聖母』より