:柳宗玄『西洋の誕生』

                                   
柳宗玄『西洋の誕生』(新潮社 1971年)

                                   
 私の持っている柳宗玄の本はこれが最後になりました。読む順番が逆になって初期の著作を後になって読むことになってしまいました。若くしてすでになじみのテーマがこの本にはほとんど顔を出しています。この本で扱っているテーマを、重複も含めて列挙してみれば、おおよそ次のようなものとなるでしょう。

 太陽崇拝とキリスト教、聖樹信仰と楽園、西洋と木の文化、聖なる泉と宗教、魚が象徴するもの、死と舟、ノアの方舟、羊が象徴するもの、大なるもの、巨石、山岳信仰、十字文、組紐文、聖母と聖母子像、彫刻(かたどること)の変遷、花や物を象徴として描いた絵。

 それらのテーマごとに普段我々の知らない奥深い知識が随所に鏤められていますが、単なる美術史上の細かなエピソードが連なっているというのではなく、個々のテーマの背後に全体を包む大きな視点が感じられ、印象を豊かなものにしています。

 全体的な視点というのは、西洋は西洋以外の世界との交流の中で築き上げられたというもので、キリスト教の中にあるケルト時代や古代ギリシャ・ローマ社会の痕跡を追求したり、西アジアや東アジアの類似の現象との比較をしたりしているところです。

 歴史を見る視点にも、政体や制度の転換にもかかわらず日常的な人々の営みの中で変わらず継続されてきたものに目を向けたり、物事の原初の状態に遡って考えるという姿勢が一貫して感じられます。

 ヨーロッパ全域から西アジアにいたるまで建造物や彫刻、絵画を実地に観察する一方、語源的な探究を行なったり、新旧聖書や福音書、諸神話の記述、エミール・マールをはじめとする先達の論文を踏まえたうえで、著者ならではの哲学的な洞察から論を進めていて、厚みのある展開がなされています。

                                  
 ということで、内容について細かく紹介するのはとても私の力量を越えるので、いつものとおり印象に残った文章を引用することにします。

正統派が、正当派によって正統派のために残された豊かな史料に基づいて書いた歴史の周辺には、恨み深き異端の亡霊が無数にさまよいつづけているに違いないのである。たとえば正統派が異端から何かを学び取りそれを自分のために利用したとしても、正統派はおそらくそれを公言することはなかったであろう/p17

東洋美術とキリスト教美術を結ぶ太陽信仰の痕跡をさらに明瞭に示すものは、仏教美術キリスト教美術(さらにはイスラム教美術)に共通に用いられる光輪である/p22

キリストの教会が、ほとんど例外なしに日の出の方向である東に祭室を向けて建てられたのは、あきらかに太陽崇拝の影響である/p23

やがて、太陽の光の色であるまばゆい黄金色そのものがしきりに用いられるようになったのだ・・・じみな色しか得られぬ古代の大理石モザイックの代りに、華麗な原色の色ガラスを主に用いるモザイックの新時代が開華したのだった/p30

歴史を顧みると、そのような場所(楽園、聖樹、聖泉、神殿、墓所、宮殿など)にはほとんど常に凶悪獰猛な獅子や怪獣などがその入口に待っている/p47

凶悪な野獣である獅子を狩ることが、悪に対する聖なるものの勝利を象徴したのであろう。・・・獅子狩りのモティーフが西アジヤ地域に発達し、さらにそれが英雄ギルガメシュの説話と結びつき、ひいては旧約聖書におけるサムソン、ギリシャ神話におけるヘラクレスなどと繋がるのだろう/p51

カロリング朝美術、ロマネスク美術などを見直すとき、通説に反して植物が極めて重要な位置を占めていることが分かるであろう/p55

西洋キリスト教世界における異教的アジア的聖樹崇拝の伝統は極めて根強いものである・・・「五月の木」や「クリスマス・トリー」/p61

「石の文化」・・・実はその背後に巨大な「木の文化」があったのではないか/p65

カロリング朝までの建物はすべて木造天井であり、1000年頃からこの木造天井を石造穹窿に変える努力がなされた・・・さらにまたロマネスクやゴシックの聖堂が石造穹窿を頂く場合も、その上にさらに木造の骨組を造って屋根を架すのが常であり、また祭室前部の明り取りの塔も、木造の尖塔を頂くのが普通であった/p72

それらの像(ロマネスクの人像)が、五、六世紀前まで存続した古代ローマの像の自然主義からは程遠く、むしろ十世紀前後も時代を遡ったケルトの像に酷似していることは、これをどのように説明すべきだろうか/p77

ルルドの奇跡」の背後には、ケルト時代以来の「聖なる泉」に対する信仰の長い伝統がある/p83

新約聖書に記されているさまざまの事柄は、そのほとんどすべてが旧約聖書のどこかの記述と類似し符合している/p109

舟は、・・・マストをつけたその形からして、十字架そのものの象徴となる/p135

四−六世紀の絵画彫刻に表現されたキリストは、時には髯を蓄え、時には髯なしである/p168

石の信仰は人類社会に普遍的な現象である。もちろん水や火に強い耐久性、あるいはその重量ゆえの不動性からして、超人間的、超有機物的神秘力が認められ、病の治癒力があると信じられることも多かった/p179

ユダヤ教においてもさらにキリスト教においても祭壇は「聖なる石」から出発したと考えられる。この点で後のイスラム教徒の信仰の聖地メッカの寺院の中心が立方形の巨石カアバであり、さらにその中核が「黒い石」であるのと類似する/p181

独立の鍾塔は西洋では一般にはカロリング朝どまりで、ロマネスク時代以降は、聖堂に組みこまれ/p185

キリスト教の教会は、ある意味で墓室的な性格が濃厚・・・初期キリスト教時代においては、殉教者崇拝の慣習が強く、殉教者の墓所あるいはその墓棺を前にして信徒が典礼に与るところから、次第に聖堂が発達するのが一般の原則であった/p185

岩山や丘陵の聚落も、一種の山岳崇拝に始まる宗教的共同体と解釈することができる/p188

ル・モン・サン・ミシェル・・・かつては「墓場」の島と呼ばれ、ケルトの俗信によると死者の霊が目に見えぬ小舟に乗ってこの島に来たという/p194

大天使がキリスト教時代に入って出現するような山は、古くから聖山であったと見てよく、逆に言えばメルクリウスの神殿のある山には、後世には否応なしに大天使が出現したのであろう/p195

聖堂建築は外観上も山の形を写したものといえる。キリスト教以前ないし以外にも、山の形を写したものとして、古くはピラミッド、メソポタミヤのズィグラット、さらにはインドのストゥーバ、東南アジアのアンコール等々/p198

キリスト教の聖堂の多くは、これを空から見下ろすと、美しい十字を描いている。・・・教会は何よりもまず天の上なる神のために造られたのであろう/p199

なぜキリストの受難後直ちに十字架が聖なる象徴として用いられなかったかというと、それは十字架に対して当時の人々がもっていた不快な感情に基づいている/p209

組紐文・・・編籠文・・・この両者は、起源は非常に古い。とくに前者は古代シュメール社会に現われており、水を象徴するものと解釈されている/p229

この極めて特殊化した文様に、無限連続的なものを表そうとする意図が強くうかがわれるということである/p237

神像を作ってこれを拝むことを禁止したヘブライ人は、ある意味で神像の実存性や行為力を認めこれを恐れたからこそ、それを禁止した、といえる/p256

古代ギリシャ・ローマ的な行き方―それがイタリヤ・ルネッサンス以降の近代に復活するのだが―の方がむしろ特殊だと言わざるを得ない/p273

霊的なるものは何よりも先ず光と色彩とによって示されるという考え方/p275

古代から中世への移行は、これを彫刻より絵画へ、さらに正確に言えば彫刻および彫刻的絵画から絵画および絵画的彫刻への推移として説明できよう/p276

なぜ大人は花を描くのをやめたのか。この問いに対しては、返事にはかなりの躊躇があろう。・・・なぜ或る画家は花を描こうとしないのか。さらに、なぜ或る時代に、花の絵は描かれなかったのか。そしてなぜ、ある時代に至ってようやく花が画題として取り上げられたのか/p278

ローマ・・・高名な人物が死ぬと、その容貌をそっくりそのまま写した面を蠟で作り、それを木箱に入れて家に保存しておく。祭祀の日がくるとそれを一般に展示し、人々はそれをうやうやしく崇め排する。親族の著名な人物が死ぬと、面の主人公に身丈や体つきのよく似た者が、その面を顔につけ、・・・葬儀の列に加わり、式場に並び、坐る/p283

 興に乗ってついつい引用が多くなりすぎました。著作権侵害に当たるやもしれませんが、著者並びに関係者の皆さまご容赦ください。


 最後に。ひとつ疑問に思ったのは、組紐文のところで、アラベスク文様への言及がなかったことで、不思議でなりません。