:PIERRE LOTI『LES DÉSENCHANTÉES』(ピエール・ロティ『魔法を解かれた女たち』)

                                   
PIERRE LOTI『LES DÉSENCHANTÉES』(CALMANN-LÉVY 1970年)

                                   
 ロティのイスタンブールを舞台にした小説は『Azyadé(アジアデ)』『東洋の幻影』に続きこれで三作読んだことになります。
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 この三作の関係は、『Azyadé』がロティの処女作で、トルコ女性ハジージェとの実際の体験をもとにした恋愛物語。『東洋の幻影』はその後日譚で再び訪れたイスタンブールでAzyadéのお墓を探す物語。そしてこの『LES DÉSENCHANTÉES』は『Azyadé』の愛読者であるトルコ女性Djénaneら三人娘とのやり取りを描いたものですが、DjénaneのフルネームFeridé-Azâdé-Djénaneが示しているように、実はDjénaneはAzyadéの化身に違いありません。


 以前、『Azyadé』を読んだとき、会話も多くフランス語が読み易かった印象があったので、期待して読み始めましたが、字も小さくページ数も多いうえに、前半は結構難しく難渋しました。後半はかなり易しくなって速く読めるようになりましたが・・・。全体に難しい語彙が少ない分、辞書をあまり引かなくて済むので、時間単位の読む量が若干増えました(一日20ページのペース)。

 『Azyadé』と同様、美しい文章が随所に溢れ、読んでいる間中、幸せな気分に浸れました。イスタンブールの異国情緒あふれる街の風景や、金角湾に小舟が行き交う水辺の景色、金角湾に落ちる夕陽など自然の美しさを讃えた文章がすばらしい。初老にさしかかった男が語る追憶に満ちたトーンで彩られ、アダージョ楽章を聴いているような気分になります。廃墟や墓場が舞台として効果的に使われ、墓の情景が頻繁に出てくるので、一種の墓地文学ともいえるでしょうか。

 悪く言えば、若干冗長さが感じられるところもありました。例えば思い出のAzyadéの墓地を訪れるくだりは延々と墓場の描写が続きます。しかしこれは墓場から帰宅した時、見知らぬ女性から密会の誘いの手紙が届いているその驚きを強めるための工夫なのかもしれません。


 「LES DÉSENCHANTÉES」というタイトルは、小説中で、三人娘が主人公アンドレ(ロティの化身)にトルコの女性の置かれた現状を小説にしてほしいと依頼し、主人公がそのタイトルとして考えたものです。そういう意味ではこの小説は、進行形で小説を作っていくような自己言及的なモダンなところがあります。

 「LES DÉSENCHANTÉES」には二つの意味があるようです。一つは、魔法から解き放たれるという意味で、トルコの女性が因習に縛られた状態から眠りの森の美女のように覚醒するというような考え方。もう一つは、まったく逆に、心地よい夢から覚めてしまったという意味で、近代化によって魅力を失っていくトルコの古き良き姿を追慕する姿勢です。Djénaneを筆頭とする三人娘はもちろん前者の意味にこだわります。ロティはどうかというと、「前書き」で前者のふりはしていますが、私のみるところ、後者が本音ではなかったでしょうか。ヴェールで顔を覆った神秘的な女性を礼讃し、昔の風習を愛する、異邦人の、男性的な目線がはっきりと感じられました。

 前半でDjénaneの口から吐き出される結婚に対する侮蔑の言葉は、男性が読んでいて目を覆いたくなるような代物で、これは中近東の近代化されつつある女性の考え方を代弁したものか、それともロティ自身の結婚観なのか、あるいはこの時代のフランスに共通したものなのか、迷ってしまいます。

 Djénaneは、カントやニーチェなどの哲学書を読み、フランス語を流暢に話し、ピアノを弾き、作曲もする西洋の教育を身につけた新世代の人間で、彼女を無理やり結婚させようとする祖父母や叔父などトルコの伝統を遵守する旧世代との葛藤が全面的に描かれていますが、結局は、トルコの上層階級の話で、貴族以外のトルコの平民・労働者に対しては、眼中にないというか、さげすんだような印象も若干ありました。


 ネタバレになりますが、三人娘の一人Mélekが急病で亡くなった後、主人公が素性を明かさないまま葬儀に立ち会い、柩を運ぶのを手伝う場面では読んでいて涙を禁じ得ませんでした。お茶目で快活で、一番長生きしそうな役柄だった分、余計に衝撃が大きかったのかもしれません。またDjénaneが毒薬を飲みながら主人公に愛を告白する手紙を書く最後のくだりも胸に迫ります。


 よく考えてみれば、西洋人が中近東を異国情緒たっぷりに描いた本を、日本人がフランス語で読むというのは、なんと屈折した行いでしょうか。