:天平時代の渡来ペルシア人関連本二冊

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伊藤義教『ペルシア文化渡来考―シルクロードから飛鳥へ』(岩波書店 1980年)
杉山二郎『天平ペルシア人』(青土社 1994年)
                                   
 正倉院展以来、森豊の海獣葡萄鏡、李家正文の正倉院随想から渡来ペルシア人李密翳の本へと移ってきましたが、今回はペルシア人の渡来にテーマを絞って読んでみました。

 杉山二郎の本には、伊藤義教の学説や引用がたくさん出てきました。ざっとした印象では、伊藤義教はイラン語の学識を駆使して専門的、悪く言うとイラン語の知識が先行してそこから物事を見るというやや偏向的なきらいがあり、途中で読むのが嫌になるくらいでしたが、それに対して、杉山二郎はいろんな学説を俯瞰しながら、大局的に語っていて、興味深く読むことができました。

 とにかくもともと古い歴史のことは知らない私ですし、ここに書かれてあることの真偽はまったく判断する能力を持ち合わせていませんが、二人とも、遠く離れた時代、遠く離れた地域のことを、しかも数少ない資料だけで語っているわけですから、かなり想像力を駆使した飛躍のある議論となっているのは否めません。客観的な科学を旨とする人から見れば、かなり疑わしい話だと思いますが、それだけに面白さがあると言えましょう。


 伊藤義教の本は、5つの章に別れていて、大和時代に日本に渡来した人びとのなかにゾロアスター教徒がいたという推理に始まり、次に『日本書紀』の飛鳥寺についての文章中にペルシア語の述語を見出し、当時百済から渡来した技術者の中にイラン人がいたことを推測し、次に正倉院の羊木文屏風の絵解きをゾロアスター教の教義から行い、さらに二月堂の修二会のイラン起源を論じ(ついでに観音もイラン起源と論じ)、最後に日本のホロスコープである宿曜道もペルシアのものと一致すると指摘しています。

 二船に別れて日本に漂着した一行がイラン系のどこかの王の娘と取り巻きだったということや、奈良二月堂のお水取りがイラン起源だということ(お水取りを創始した実忠和上がイラン人ではなかったかということ)は、おそらくそのとおりだと思いました。が正倉院の羊木文屏風の絵解きについては、印刷が悪くて絵がよく見えないからかも分かりませんが、かなり強引な推理が感じられ、まさに牽強付会としか言いようがありません。この調子だと、漢字をペルシア語の音に置き換えて解釈する手法で導かれた著者の学説自体眉唾のような気もしてきます。


 断片的に興味深く読めたのは、
①死者の魂があの世に行くとき橋がかかっていて、善魂は九槍の幅のある橋を渡ってアフラマズダーの天国に行けるが、悪魂は刀剣のように狭くなって渡れなくなる(p38)というイランの神話。→これは『異界―中世ヨーロッパの夢と幻想』で読んだ話。
斉明天皇の事業で「狂心渠」という石を積んで垣を作る工事で、延べ十万人の人命が損じたという話(p45)。
③麻酔酩酊性の効果をもつハオマという飲みものを『ヴェーダ』の詩人たちが服用していて、それによって「遠くを見ていた」という一節。
④東方のサカ族の一派にそのハウマを飲んでワルカ(狼)の所作をする信仰をもつものがいたという伝説(p72)→狼男伝説か。
⑤イラン民族には古くから他界遍歴譚が伝承されているが(p139)、その他界とは悪人の受ける罰の世界だということ(p142)。→これはヨーロッパの遍歴譚とも重なる。



 『天平ペルシア人』は、書いてある内容が難しい割には、ですます調でていねいな文章で、読みやすいように心がけているのが感じられて好印象。またルビのつけ方が面白く、例えば、『閑話休題(あだしごとはさておき)』『青槐蔭陌(あおあおとしたえんじゅのかげがあるとおり)』『荒唐無稽(ありもしないでたらめ)』といった具合。

 著者の問題意識は、グローバルに活動しているはずの現代社会に見られる日本人の閉鎖性にあり、対外人との接触のもっとも積極的だった七〜九世紀の日本人の態度と生活を眺めてみようというところにあります。そしてその解決のヒントとして、ペルシアの流浪の民の自在さに理想の姿を求めているように思います。


 内容は、古代における外来の技術の移入のあれこれに始まり、渡来してきたペルシア人について、
ササン朝王統の血脈(ちすじ)を引く王族が亡命してきたこと(伊藤義教の説)、
百済系工人のなかにイラン系渡来人がいたこと(これも伊藤義教の説)、
③飛鳥大仏を造った司馬鞍作首鳥(しばくらつくりのおびととり)がイラン系の技術工人だったかも知れないこと、
遣唐使が連れ帰った李密翳がペルシア系音楽の楽人らしいこと、→李家正文『天平の客、ペルシア人の謎』では単なる青年ということだったが。
東大寺大仏建立に貢献した実忠がペルシア人であったこと(これも伊藤義教による)、
⑥鑑真が同伴してきた安如宝がペルシア・パルティア人の血脈をもっていたこと、を述べています。


 その合間に、海外との交流についての数々の面白い話が書かれています。
朝鮮半島から青銅器が伝わったあと間もなく鉄器が来たので、日本は技術発明の血みどろの葛藤軋轢を体験することなく、その長所を採用できたこと、
蘇我氏の祖先を百済からの渡来系人とする説があること、
法隆寺に納められた宝物のなかにも、ペルシアに起源の金銅製龍首水瓶、西アジア起源の紫檀象牙画箱などがあること、
シルクロードは大仏東漸の道として捉えることができること、
密教真言の呪法や護摩壇での水火、香煙の利用は、ゾロアスター教のハオマ酒やハシッシュ麻酔剤や施術の影響であること、
長屋王が舶来の珍奇な動物や鳥を愛で、動物園や植物園を作り、ヨーグルトやシャーベットを食べるなど異国趣味溢れる生活をしていたこと、
⑦大安寺は当時外国人渡来者の寄宿した場所だったこと、
東大寺南大門の裸形の仁王像はギリシアのゼウスとヘラクレスの東漸現象の一つとして考えられること、
⑨鑑真和上が日本に来る費用を捻出したのは揚州の商人らしいこと、
新羅僧が求法のために中央アジアの流沙を越えてインドに入り皆帰国しなかったことや、朝鮮人使節サマルカンド王朝へ行ったこと。

 東西交渉史を語るのに、ペルシアや中国から東の方向に一方的に来たことだけでなく、西から東への動きにも言及されているのが素晴らしい。朝鮮半島から中央アジア使節が行っていたというのは驚き。


 他に、断片的知識として印象に残ったのは、
日本には馬車文化が入るのは明治になってからで、それまでは牛車文化だったこと(p66)
虜囚になることを恥辱とする観念は日露戦争までなかったこと(p91)
日本人船大工たちは黒船を見て初めて竜骨などの造船技術を学んだこと、それまでの日本船は、支那、朝鮮の船にくらべてもはるかに脆弱だったこと(p264)、など。

 この本で、李密翳について書かれた部分で、李家正文の本が6年前に出版されているのに、まったく言及がないのが不思議。新聞記者だったので相手にしていなかったのでしょうか。新聞記者で思い出しましたが、松本清張も『眩人』や『火の路』などで、古代日本とイランとの関係をテーマにしていて、松本清張も専門書を大衆化させる役割をした人として位置づけられると思います。


 開国と言えば、時代が新しく現代への直接の影響が大きいこともあって、これまで明治期が関心の主でしたが、最近の読書から飛鳥・天平時代にも興味が湧いてきました。それに我が家は奈良に近いこともあるし。