森豊『聖なる円光』

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森豊『聖なる円光』(六興出版 1975年)


 形についていろいろ読んできましたが、この本でいったん終えます。今回は、円が象徴する図像として、聖像の頭部や背後を飾る円光を取りあげた本です。日本に仏教が渡来してからの光背の形がどのように移っていったか、さらにその源流を尋ねて、朝鮮、中国、敦煌、バーミアン、インド、ペルシア、エジプトまで遡ります。ギリシア・ローマの神像、ヨーロッパ中世のキリスト像にも言及しています。

 写真や図版が少ないので、文字であれこれ書かれていても、なかなか想像できません。またご本人も「この小篇には・・・美術史的な学問的記述をしようとは思わないので、ただ、さまざまな形の光背があることをしるしていくに過ぎない」(p89)と書いているように、光背の細部のデザイン上の特徴がどうなっているかや、仏像の種類による違い、また宗派・経典による表現の違いがどうなのかなど、体系的な説明がないので、分かりにくい。

 おぼろげに分かったことは、間違っているかもしれませんが、おおよそ次のようなことです。
①もともと仏教では、偶像崇拝が禁止されていたので、はじめは涅槃図などでも、仏弟子、天人などが彫られていても、かんじんの釈迦の姿が見当たらない。仏弟子たちは宝塔であったり、菩提樹に向かって礼拝している。この時代の仏教芸術を無仏時代という。仏弟子や天人には光輪も光背もなく、リアルな人間として表現されている。ギリシアの神々も人間として描かれていて円光をつけたりしておらず、せいぜい王冠や月桂樹の冠を頭に乗せているぐらい。ローマでも、神像や肖像彫刻には円光は見られない。

②仏の表現は先ず仏足石から始まった。その場合、普通の人間の足と区別するために、釈迦であることを示す法輪を刻んだ。初めは簡単であった輪相も、やがて荘厳になっていく。

③仏像の起源は、西方文化の刺激によりインドの北方のガンダーラやマトゥーラで起こってくるが、ガンダーラの苦行仏頭部の無文の円形光背が円光のもっとも初期のものという。諸種の経典に、仏は全身あるいは体の一部より光明を発すると書かれていることを表現したのと、仏足石と同じように普通の人間と異なったものを付加して、それによって神であり、仏であることを象徴させようとしたものであろう。

④光背の原型は円形頭光と肩光である。円形頭光は太陽を、肩光は火焔を象徴し、円光は初めは単純な輪、肩光も肩先にわずかに見える程度だったのが、伝播していく間に円光は加重され、肩光も順次伸びてやがて全面火焔になり、さらに両者が合体し、そこに唐草などの装飾が豪華に飾られるようになる。その後装飾性が強まり、蓮華、宝相華、唐草、瑞雲といったものが中心となって火焔は脇に追いやられてしまい、光背は仏像のうしろを飾る装飾品となっていくようである。

古代エジプトの太陽神ラーは円光を頭上にかかげた神である。ペルシアでは王がアフラ・マズダ神から王権を象徴するファルナフ(光輪)を授けられている絵があり、ファルナフは太陽・光を意味する言葉である。古代人にとって太陽は永遠に尽きることのない光であり、貴賤老若、人類鳥獣植物虫魚を問わずその恵みを与えるということから神を象徴させるイメージとなったのであろう。

⑥西方ヨーロッパにおいて、もっとも円光を輝かすものはキリスト教における絵画・彫刻であり、東方の仏教における光背とまさに双璧をなすものである。これも初めは頭上に細い金の輪だけの円光だったのが、金の点線を放射状に円く描いたり、宝冠様の飾りが複雑に充填されるようになる。

⑦蓮華を上方から見た円花文は、エジプトに5000年前から存在し、ペルシアのペルセポリスにおいても至る所に浮彫りされ、アッシリア帝国も円花文様のおびただしい遺品を残している。円花文はまた太陽の象徴でもある。経典では、蓮は泥中から生い出て泥の汚れに染まることなく清浄な花を開くといったように解釈されているが、太古の人類が蓮に対して持っていた呪術性・象徴性を忘れている。蓮は太陽、水、そして生命という人類の根元のものと結びついていたのである。


 素人の目から見ても、密教と火焔光には密接なつながりがあるように感じますし、また先日、テレビの番組で桜井市聖林寺にある国宝十一面観音像の光背が薬王樹という薬草を文様化したものだと言ってましたが、その辺のことにも言及があればよかったと思います。