:ルバイヤート第一弾、注釈書二冊

 これからルバイヤートを読んでみようと思います。いま所持している本は下記のとおり。
フィッツジェラルド訳からの重訳は、
初版:森亮訳『ルバイヤット』、井田俊隆訳『ルバイヤート』、尾形敏彦訳『ルバイヤアト』、矢野峰人訳「四行詩集」(『ルバイヤート集成』)
第二版:竹友藻風訳『ルバイヤート
第四版:蒲原有明訳『有明集』6篇、寺井俊一訳『ルバイヤット』、奈切哲夫訳『ルバイヤット』、長谷川朝暮『留盃夜兎衍義』、矢野峰人『近代英詩評釋』33篇、赤木健介『在りし日の東洋詩人たち』13篇
第五版:矢野峰人訳「現世経」(『ルバイヤート集成』)
マッカーシー訳:片野文吉訳『ルバイヤット』
ヘダヤード編ペルシア語原本:小川亮作訳『ルバイヤート』、岡田恵美子訳『ルバーイヤート』
ペルシア語原本:陳舜臣訳『ルバイヤート
その他:堀井梁歩『異本留盃椰土』


 現在、途中まで読んでいる段階で、いくつかの論点が出てきています。例えば、
①口語と文語の問題、それに付加する形で出てくる音数の問題、
②ペルシア語原本とフィッツジェラルド訳との関係、翻訳のあり方、
ハイヤームの詩への二つの見方、芸術派と人生派。
ハイヤームがルバイヤートを書いた目的、背景。
これらを、念頭に置きながら、注釈書、フィッツジェラルド訳、ペルシア語からの直接訳他の順にまとめてみます。第一弾は注釈書で、下記の二冊。
長谷川朝暮『留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)』(吾妻書房 1967年)
矢野峰人『近代英詩評釋』(三省堂 1935年)
///
                                   
 詩は注釈つきで読むのが、いちばん味わい深いと思います。とくに短歌や俳句は私の場合、注釈がないとなかなか理解できません。そんなわけで、まず注釈書からスタートしました。


 この二つの本は、注釈と言ってもまったく方向が違っていて、長谷川朝暮の本は、ルバイヤートの注釈をしながら、一を聞いて十を知る風に、話がどんどん脱線し広がって、自らの学識と人生観を展開しているところが面白い。高校で話好きな先生から講義を受けているような印象があります。それに対して、矢野峰人の本は、フィッツジェラルドが英訳した英詩の注釈書で、他の研究者がどう解釈しているかとか、フィッツジェラルド以外の英訳本などとの比較をもっぱらとして、かなり専門的で、大学の講義(実はあまり聞いたことがないが)を聴いているような面持ち。

 森亮がルバイヤートを語る人たちに芸術派と人生派の二種類あると『ルバイヤット』の「日本におけるルバイヤット」のなかで言っていて、それが上記③の論点になっていますが、それで言えば、長谷川朝暮は人生派、矢野峰人は芸術派と言えるでしょう。    

 両書とも原本にしているのがフィッツジェラルド訳の第四版で共通していて、長谷川朝暮が全体の75篇、矢野峰人は初めの33篇を訳しています。その訳し方を第3篇で比較してみます。なぜ第3篇で比較するかと言うと、この第3篇と第29篇(二版では第32篇)だけ(だと思う)が初版から五版を通じて同じで、他の訳本との比較も可能だからです。

鶏(くたかけ)の時を告ぐれば、旗亭(はたごや)の前に立てる人々/ 叫びけらく、「さらば戸を明けよ。/ とどまるも束の間/ ひと度去らば、また帰ること無き我等なり。」(長谷川朝暮訳)
鶏鳴きしとき門外に/ 声叫ぶらく「扉(と)を開けよ、/ ここにとどまる須臾なるに、/ 去ればかへらぬわれらなり」。(矢野峰人訳)で、音数で見ると、
5・7・8(5・3)・7/6・8(3・5)/5・4/7・7・7(長谷川)に対し、7・5/7・5/7・5/7・5(矢野)となっています。

 明らかに、矢野訳の方が語調がよく、無駄のない引き締まった印象があります。この音数の問題は論点①になりますが、これについて『近代英詩評釋』のなかで矢野峰人は次のように書いています。「原詩の一行の意味するところを洩らす無く盛らんとするにはわが七五調は慥に短かきに過ぎ、またこれを二つ重ねて一行とする時は散漫に流れ易い、かくして竹友氏は五五七、七五五、五七五、七七五などの如く五音と七音との混用体を適用して居るが、恐らくこの形が至当のものと言うべきであろう。今試しに蒲原有明氏の訳を見ると・・・7,5,7,5/5,7,5,7/7,7,5/7,5,7/の如く、或は7,5/7,5/7,7,5/7,7,7/の如く五音と七音とを二個以上四個迄自由に併用して居る。余は今これら諸名家に倣わず思い切って全部を七五調に訳してみようと思う」(p86)。つまり意味を重視するか、語調を重視するかの問題で、これは口語と文語の問題にも関連してきます。矢野峰人も七五調だけでは意味を洩らしてしまうことを反省してか、後の五版の訳の際には竹友藻風のような五音七音の混用体を採用し、語調を捨てて意味の方を取っているようです。


 『留盃夜兎衍義』は、主としてルバイヤートの思想を問題にしていて、その現世主義、快楽主義が、西洋世界のエピキュロスや東洋の白楽天、趙承祐、崔敏童ら中国文人大伴旅人鴨長明高山樗牛ら日本文人と共通することを、それら文人の詩や言葉を引用しながら説明しています。またルバイヤートに登場する現世享楽の七つの要素として、満月、赤薔薇、夜鶯、酌人、赤葡萄酒、玉盃、友人を挙げています。そしてハイヤームが、無神論のようだが不可知論であること、刹那主義とは異なる現世主義であること、根底には宿命論があるがそのなかで抗っていることなどを指摘し、ルバイヤート全体を覆う悲哀に満ちた世界観が万人の共感を呼んでいると結論づけています。

 評釈とともにあらためて読んでみて、ルバイヤートの世界には、ギリシア神話の故事や旧約聖書もイエスも出てきて、ペルシアにおける西方の影響が強く感じられました。また将棋盤やポロが出てくるのは、どちらが先か知りませんが、世界がつながっているという気がしました。

 ちなみに、長谷川朝暮という人は、一高で芥川龍之介菊池寛と同級だったそうです。


 『近代英詩評釋』では、新しくいろんな情報が得られました。
①テオフィル・ゴーチェが『L’Orient(東方論)』のなかで、ハイヤームを論じていること。
ルバイヤートのフランス語訳には、Charles Grolleauの散文訳、Claude AnetとMirza Muhammad共訳の散文訳、Jules de Marthold韻文訳、Franz Toussaint散文訳、FitzGerald 初版からのF.Roger-Cornazの訳、第四版からのJ.H.Hallard(英人)の訳などがあること。
郭沫若が中国語訳をしていること。