ROLAND DORGELÈS『Le château des brouillards』(ロラン・ドルジュレス『霧の館』)

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ROLAND DORGELÈS『Le château des brouillards』(Le Livre de Poche 1962年)


 生田耕作旧蔵書。ロラン・ドルジュレスの作品は日本でも翻訳がいくつか出ているようです。何かの本で、ネルヴァルが収容されていた精神病院の建物が舞台になっていると読んだような気がして読んでみましたが、違っていました。「ネルヴァルが葡萄を食べにきていたというが、もうシルヴィーの時代の風車の音は聞こえなかった」(p65)という一文があるだけでした。

 「霧の館」というのは、モンマルトルの坂の上にあり、アカシアや日本の漆、マロニエに埋もれたようになっている18世紀様式の古びた館です。ルノワールがアトリエを構えたり、レオン・ブロアが住んだりしたことがあり、当時はアナーキストたちが巣くっていたところで、「ラパン・アジル」と並んで、この物語の主要な舞台となっています。この物語が描こうとしたのは、20世紀初頭のモンマルトルの雰囲気で、駆け出し画家、自称詩人、ジャーナリストの卵らが、犯罪者や浮浪者と一歩すれすれのところで生きる姿です。ドルジェレスの実際の体験がもとになっていると思われます。

 前半は登場人物が多いのと、理屈っぽい会話が多かったので、読むのに苦労しました。登場人物はざっと数えてみると30人ぐらいいて、困ったことに、フランスの小説では人物は、姓、名、愛称、貴族の称号、職業など、たえず呼び名を変えて登場するので、分かりにくいこと夥しい。それで登場人物一覧を作りながら読みました。後半は登場人物も把握でき、内容も波乱にとんだ活劇風となり、読むスピードも俄然速くなりました。だいたい長編小説の場合、後半の読むスピードは速くなるようです。


 まずい要約なので面白さを伝えきれませんが、話の内容はおおよそ次のようなものです(ネタバレご注意)。
主人公は、詩人志望でその名もジェラール。ラパン・アジルでモンマルトルデビューを図ろうとして、アナーキスト集団と喧嘩になり、銃をぶっ放す。冒頭から不穏な雰囲気。ジェラールは、投資話をあちこちに持ちかけている山師の友人の紹介で、屋根裏部屋を借り、文壇デビュの機会をうかがう。親から貰ったわずかな生活費で、見栄を張って資産家然とした振る舞いをする日々。下の階に住むお針子の女性と、彼女の夫が貿易の仕事で長期出張してるのをいいことに愛人関係になるが、一方で、アメリカ人女優に恋い焦がれている。

三文小説書きの老作家の家に絵のコレクションを見に行ったとき、向かいの建物「霧の館」に例のアナーキストたちが巣くっているのを見て恐る恐る近づき、次第に仲間に入って行く。一人が逮捕されるなど警察が彼らを見張っているようだ。グループを束ねているのは、若い装幀家の女性。ジェラールも自分の蔵書をルリュールしてもらうなど意気投合する。一方、山師の友人のとりなしで、ジェラールの劇作品が上演されることが決まり、それがきっかけで小説の出版話も持ち上がる。憧れのアメリカ人女優がその主役を演じることとなった。未来の成功をあれこれ夢見る日々。が、なかなか上演の日程が決まらない。そうこうするうちに虚勢を張って使っていた金が底をつくはめに。

ある日、霧の館に仲間の一人が包みを持って現われ、装幀家とどこに隠そうかと困り果てているのを見て、ジェラールは自分の部屋で預かることにした。爆弾だと思っていたが、霧の館でのみんなの言動から類推して贋金だと気づいたジェラールは包みを確認してみると、贋金作りの器具と贋金貨2000フランがあったので、慌てて屋根の上に隠す。同じ頃お針子の女性が妊娠していることが分かり、大金が必要になる。山師の友人に相談すると、折半することを条件に友人が贋金を全部処理し、半額分を正貨で工面してくれることになった。無事にお針子の子どもを堕すことができたが、夫が戻ってきて、妻の状態がよくないのを見て田舎に引っ越していく。心の重荷が取れたが、悲しくもあった。

そのうち仲間がどんどん逮捕されて行った。どうやらスパイが紛れ込んでいたらしい。山師の友人もついに逮捕された。いよいよ自分の番だと覚悟したジェラールは装幀家のアドバイスに従って、部屋に鍵を掛けて居留守を使う。アメリカ女優が部屋に訪ねてくるが気づいたときはもう去っていた。別れを告げに来たのだった。そんなとき第一次世界大戦が勃発した。ジェラールはほっとすると同時に、罪を償う気持ちで戦場に赴く決意をする。装幀家の女性を愛していたことに気づき、二日間愛し合ったあと出発していく。

最後の章は、時間がいっきに戦争終了後に飛び、作者本人が一人称の話者として登場して過去を追憶します。モンマルトルの町の様子が一変したことを懐旧の念を交えながら描き、老作家の葬儀に現われたかつての登場人物たちの姿の変貌ぶりや、現われなかった仲間たちの運命について語ります。ジェラールは戦死し、多くの仲間たちも戦死したり、獄死したりする一方、山師は興行界の大物になり、お針子の妹はスター女優になっています。装幀家の女性はジェラールを戦場に送るのではなかったと後悔の念を吐露します。長編小説ならではの感動がありました。


 いくつかの警句が目にとまりました。若き批評家の言葉。「盲目の画家なら描ける」。「韻律に捉われてはいけない、言葉を解き放つんだ」。「理性から逃げなくては、光は井戸の中にしかない」。「リンゴ?そんなものは描くのじゃなく食べなくちゃ」。「水面の反射には輪郭はないんだ」(p32~33)。老作家の言葉。「貧乏はうつる。幸せになりたいなら幸せ者に近づくことだ。オスピスでせむしの背中をさするようなことはしてはいけない」(p89)

 ひとつうかがえるのは作者の女性観で、愛人を背負いこむのを火のついたマッチを最後に掴むのは誰かというゲームに喩えたり(p150)、女性に保護されるのに屈辱を感じてと書いたりして(p197)、20世紀初頭の女性蔑視的な心情を見せています。この作品で訴えたかったのは、装幀家の女性の口を通して語られた次のような自戒の言葉でしょう。「第一次世界大戦で、2億人の女性が夫や息子を戦場に喜んで送って行ったが、彼女たちが唾を吐きかけるべきは、相手国のドイツやフランスではなく、自国の首相や大臣にするべきだった。もし女性が戦場に行くことになれば男たちは全力でそれを阻止しただろうに、女性はそれをしなかった。自分たちはのうのうと食べて寝ていた間に、男たちは大砲の餌食になったのだ。私は間違っていた」(p240)。