:バルベイ―ドールヴィリ小島俊明訳『妻帯司祭』


バルベイ―ドールヴィリ小島俊明訳『妻帯司祭』(出帆社 1975年)

 引き続き、ドールヴィイを読みました。この作品でも旺盛な語りは健在です。女性の胸元に光るメダイヨンの話から、それをよく知る人物の登場という前段があり、その男が本編を物語るという形になっていて、その語りは、まず舞台となる低地ノルマンディ地方のある村の情景、その閉鎖的な村には主のいない城とそのまわりに多くの村人たちが溺れ死ぬ沼があるという神秘的な雰囲気の描写で始まります。

 途中、妻帯司祭でキリストから科学へ信仰を切り替えたソムブルヴァル、その娘でカタレプシーの発作を起こす信仰に入れあげたカリクスト、貴族の家柄で許嫁がありながらソムブルヴァルの娘に恋するネエルなど、性格が異常で感情の激しい人物が続々と登場します。その中でもひときわおどろおどろしい雰囲気で全体の語りをリードしているのは、老女ラ・マルゲーニュで、彼女の預言というか呪いが物語の展開に大きく影響していきます。序文のなかで、ピエール・クロソウスキイも「魔女である彼女は、小説の筋に民間伝説の調子を添える、と同時に生まれつきのその千里眼によって、神の予知を擬人化する(p22)」と紹介しています。

 ラ・マルゲーニュの預言とそれに巻き込まれながら対抗しようとする主人公ら。この作品の主題の一つは、神の決定と人間の自由意志の問題にあるのは間違いありません。

 ところどころ『嵐が丘』を思わせるような雰囲気も漂います。人里離れた荒野、荒れ果てた城館、激しい人物たちの応酬。さまよう幽霊(p150)はゴシックロマンスも思わせます。

 もう一つのテーマは、やはり貴族という概念がキーワードになると思います。バルベーが貴族という言葉で考えているのは、血ということよりも、貴族としての精神的なあり方で、それは日本の義理とかに通じる「私を失くして何かに立ち向かう」ということです。この作品でも、主人公の一人ネエルが死を覚悟のうえ身を投げ打つかのように馬車を駆る場面や、妻帯司祭ソムブルヴァルが娘のために血だらけの苦行に打ち込む場面にそれがよく現れています。

 キリスト教の世界は不勉強でよく分かりませんが、この作品で見るかぎりカトリックでは妻帯はたいへん重い罪になるようで、それがこの物語のそもそもの中核にある問題です。プロテスタントは牧師の妻帯が許されているみたいですし、日本でも坊主が結婚していたりするのに、カトリックではこれほど重い罪になるのでしょうか。

 カトリックの峻厳さは、妻帯司祭が娘のために悔悛したかのように見せるのが、神の前での真実という点で、より一層重い罪になるということに表われています。そういう振りをすることで皆が幸せになれるのに、その秘密を知った別の司祭が妻帯司祭の娘の前で真実を喋ってしまいます。「嘘も方便」という具合にならないものでしょうか。そもそも嘘を完璧に守り通せない妻帯司祭に問題があるわけですが。現実問題として、神や経典を信じていないのに信じているふりをしている宗教家がこの世に一人もいないものなのでしょうか。

 パリ大司教から発売禁止の処分を受けたと「あとがき」にありますが、どういう理由で禁止にしたのでしょうか。妻帯司祭の無信仰の言葉が激し過ぎるからでしょうか。それとも、自分たちのなかに物言わぬ無信仰者が潜んでいることを暴かれることが怖かったのでしょうか。

 テーマがテーマだけに、観念的で難しいところがありました。クロソウスキイの序文もほとんど意味が分かりませんでした。