:ジャン=ピエール・リシャール『現代詩11の研究』


                                   
ジャン=ピエール・リシャール粟津則雄ほか訳『現代詩11の研究』(思潮社 1971年)

                                   
 昨年の購入本。ボンヌフォア、デュ・ブーシェ、ジャコッテが取りあげられていたのと、多田智満子が一篇訳していたので買いました。ほかにルヴェルディ、ペルス、シャール、エリュアール、シェアーデ、ポンジュ、ギルヴィック、デュパン、あわせて11人の詩人の作品を論じています。訳者陣も錚々たるメンバーです。

 学生時代にはこの手の本をけっこう無理して読んでいたんですが、いまの脳軟化症気味の私にはとてもつらいものがありました。じつはボンヌフォア以外はあまり読んだことのない詩人ばかりで、前提となる知識がなさすぎたことも一因です。文章をたどっても意味がつかめないところがほとんどで往生しましたが、そのなかに何か惹かれる文章がところどころあったのがせめてもの救いで、それがなかったら途中で放り投げていたでしょう。ついには、論理的に意味を取ろうとしてもできないので、途中からあきらめて、その「何か惹かれる」言葉のイメージだけを頼りに読んだというのが正直なところです。もっと何度も読み返せばもう少し理解も深まるとは思いますが。

「序説」で著者が「これらのエッセーのなかで主として押し進められているのは、主題をなす形態の探求」(p17)と書いているように、イメージの詩学とでも言うのでしょうか、一つの詩作品を論じるというよりは、詩人のよく使う表現全体を見まわし、言葉のもつ詩的イメージを、バシュラールのような元素的運動的原型的に捉える手法で探求しています。むしろ11人の詩人を素材にして、自分のイメージの詩学を展開していると言ってもいいくらいです。一種の芸だと思いますが、自分の進めたい話の運びにあわせて、詩人のフレーズを巧みに引用しているという印象を受けます。

 しかもフランス人特有の冗舌体で、これでもかこれでもかとばかり、イメージが次から次へと頁を埋め尽くすように湧いて出てくるのが凄いところ。一例として、ピエール・ルヴェルディの章を見てみますと、とてもすべてのイメージを拾いあげるわけにはいきませんが、次のような感じでしょうか。
壁に囲まれるイメージに始まり、逆にその壁が遠ざかりつかみどころのなくなるイメージ、そしてその焦燥感、孤独感から解き放たれて、空・高みへと移るが、高所にも低所にもなじめず宙ぶらりんになるイメージ、次に別の視点から、間隔、叫び声やガラスのこわれる音や汽笛の噴出などの裂傷、風、壁の割れ目・穴、穴としての橋、道の曲がり角、廊下、シルエット、靄、旋風と矢継ぎ早に、書いていても何だかよく分かりません。

 サン=ジョン・ペルスの章では、はじめにみずみずしさあるいは生々しさという生の活気からはじまり、帆のイメージ、次に都市、女性、そしてそれらの過食に対する嫌悪感からの淀みのイメージ、乾燥した粉への嫌悪感、塵・埃、そしてそれらが雨・雪・風により浄化されるイメージ、岩石の乾きのイメージから鋭利さのイメージ、そして時間の鋭利さとしての瞬間のイメージなど。かなり端折ってもこのとおり。

 存在が消滅した跡に残る痕跡の美学に触れた文章がありました。シェアーデの章で「匂いとは、それが閉じこめられたままでありながら解きはなたれている・・・この発散という事実は、・・・われわれを、一種の魂のもつ神秘へと導くのである。この魂は、・・・それを具体的に支えているものが消滅してのちも、なおしばらくのあいだ、存続するのである」(p224)という匂いの感覚、それとギルヴィックの「この血のしたたる肉が宣言した夜・・・そのなまあたたかさによってなお、夜はわたしたちの王国に結びつけられている」(p299)という触感の残存。それを他の五感に移して考えると、音楽の演奏が終わったときの余韻、壊された建物や故人などこの世に亡きものの写真が考えられるでしょうか。


 ぐだぐだ書くよりもやはり本文を見てもらうのがいちばん適切だと思いますので、引用します。少し多いかもしれませんが。

現代詩の探求の先端部には、対になったさまざまな具体的な背反が現われる。・・・このとき、詩は、直接的なかたちで、このへだたりを生きている。それは、素材、形、質、色彩、運動などを通して、あの矛盾を体験するのだ。/p12

美しい詩において、いかにして感動が、或る到来の作りだす動力が、言葉の浮彫り的効果や、イメージの変化や、感情の抑揚や、観念の結合などから、同時に生まれ出るかを感じとること/p17

以上「序説」(粟津則雄訳)

この壁は入口を塞ぐことによって、われわれが入口を突破して到達しようとしていたそれ自体の存在を示すのである。恐ろしいのは、恐らく制約する行為よりも、制約されたものの後に存在している何かによって同時にわれわれになされる暗示であろう。それ故ここでは囲いの中の不思議な幻影が、隠されたものの持つ禁じられた魅力をかきたてることになるだろう。/p23

人はまた決して事物の客観的時間と一致することはないからだ。人はいつもそこに早過ぎるか遅過ぎるかして到着する。/p25

《足音が一つの踊り場の上をすべる/誰も入ってこない/そうだ 誰も入りたがらないのだ》。この中断された歩みの意味は何であるのか?感覚はここでわれわれに情報というその目標を与えると同時に、われわれからそれを奪ってしまい、感覚は一層の謎となる。/p32

以上「ピエール・ルヴェルディ」(高橋彦明訳)

焔こそは、石の中心にあって、その乾燥の強力な非妥協性を担うものだからである。そこから、雲母、片岩、石英、火打石、あるいは黒曜石といった、光沢のある硬い石への好みが生れるが、その乾燥度は、きらめきと攻撃性との眼に見える価値といったものを体現しているように思われるのである。/p62

《世紀を頭巾のようにかぶった鷲が岬の金剛砂で爪を研いでいる》。形態の禁欲的な鋭さが、こうして実質がもつ内的乾燥と、行動の英雄的開始とに華々しく応える。/p64

瞬間とは、ここでは、尖端が空間の鋭利性であり、乾燥が関係の鋭利性であるように、時間の鋭利性である。/p87

以上「サン=・ジョン・ペルス」(渋沢孝輔訳)

断片の本質的苦痛とは、強引に引離される以前のあの全体、あるいは未だ合体するにいたらなかった総体というものをまだ憶えていることであり、自分が現実の小部分、不完全という宿命を負った一個の小部分にすぎないことを知っているというそのことなのだから。/p121

以上「ルネ・シャール」(天沢退二郎訳)

遠方を見つめる眼・・・この眼を、もっとも触知しがたいその空色によって、肉体的にみたすに至るのである。・・・彼方を専門とする者たちは、すべて青い眼をもつこととなる。/p225

以上「ジョルジュ・シェアーデ」(粟津則雄訳)

知覚が立ち止まるところから、想像力がバトンを引き継ぐ。・・・想像力は外側の樹皮をのりこえ、この外側が夢みた内部へもぐりこんでいく。しかし、あらかじめわかっていたことではあるが、不幸なことにこの内部そのものも逃げていくのだ。/p279

以上「ギルヴィック」(水田喜一朗訳)

夜の中のひとつの声、石のなかのひとつの叫び声、未定形の、そしてとらええぬものの濃密さのなかのひとつの光/p322

《剣が石の塊の中にさしこまれたまま動かないのだった。鍔は錆びていた。古代の鉄が灰色の石の横腹を赤く染めていた。》・・・鋼と岩との関係は、石炭と暗闇との関係にひとしい。/p340

以上「イヴ・ボンヌフォア」(平井照敏訳)

光りには実際のところ光は見えない。照らしはするが照らされはしないのだ。・・・だから昼はここでは盲目としてかがやく。/p359

以上「アンドレ・デュ・ブーシェ」(小島俊明訳)

ボードレールに、あるいはマラルメに見られるような、硬化し凝結することによってはじめて透明さを内部にあつめる例の宝石もない。ここでは、透明な閃光は静謐であり、均質である。/p388

ひろがりが無限に逃げてゆき、われわれがそれを人間的な動きで満たすことが、もはやできなくなるという場面だ。・・・ひらかれた方へ上昇してゆくらせん運動にとらわれたときの不安は、下降する塵の渦巻にとらわれた場合に劣らない。/p389

時間の領域でうしなったものを、おそらく空間の領域でとり戻しているのである。/p405

以上「フィリップ・ジャコッテ」(佐貫健訳)

廃塔そのものがすでにその出現と失墜との、出現した失墜の、二重の緊張のうちに均衡を保っているのではなかったか。/p437

以上「ジャック・デュパン」(多田智満子訳)


 この本を読んで、ルヴェルディ、ボンヌフォア、ジャコッテ、ついでペルス、ギルヴィックへの興味が新たに湧きました。

 リシャールについては、ネットで見ると、1922年生まれですがまだご健在のようで、昨年も、名前も聞いたことがないような現代作家についての論評集を出版されているようです。