『時間泥棒』と『時間衝突』

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ジェイムズ・P・ホーガン小隅黎訳『時間泥棒』(創元SF文庫 1995年)
バリントン・ベイリー大森望訳『時間衝突』(創元SF文庫 1994年)


 似たようなタイトルの本。読んだ順番です。原書は『時間泥棒』1994年、『時間衝突』1973年と、『時間衝突』の方がかなり古い。二冊とも時間SFで、前者は電子機器の密集している場所の時間を食べる虫のような存在に時間が盗まれる話が軸となり、後者では、地球上で、未来に進む時間と、こちらから見て逆に未来から過去に進んでくる時間が衝突することがテーマになっていて、ともに奇想天外、都市や地球単位のスケールの大きな話となっています。

 SFはあまり読んでませんので、他のいろんな時間SF作品がどのようなものか知りませんが、この二冊に限って言うと、形而上小説の趣きがありました。『時間泥棒』では、時間が場所によって進み方が違ってきたことの捜査を命じられた主人公の刑事と部下の女性捜査官が、そもそも時間とは何かと探るところから始まり、透視能力を持つ心霊学者、哲学者、司祭を次々に訪ねて行きます。哲学者から聞き取った説明の部分では、アリストテレスから、プラトン、聖アウグスティヌススピノザヘーゲルにいたる時間論についての哲学史といったところもありました。

 『時間衝突』では、時間について、宇宙の成り立ちや、次元論、生命が時間の産物であるという理論や、私の理解できなかった回帰問題などとの関連でいろんな話題が開陳され、「斜行存在」という時間を斜めによぎって行く存在が出てきたりしたあげくに、その斜行存在に次のようなセリフを言わせているあたり神秘小説と言ってもいいと思います。「わたしはひとりの個人でも複数の個人でもない・・・『わたし』も『われわれ』も、わたしの本質をあらわすにはふさわしくないの・・・いちばん事実に近い形容を探すとすれば、『われわれ』とか『わたし』とかではなく、たんに『ここ』と呼ぶのがいいだろう」(p283)。言葉も女言葉になったり男言葉になったり変幻自在です。

 宇宙や時間など物理の学説をあまり知らないので、所々出てくる理論について、どこまでが学界でオーソライズされていて、どこから著者の勝手な想像か、よく分からないところがありました。が、両作とも、物理学の理論書というには緻密な論証や根拠もなくあまりに飛躍が過ぎていますし、小説というには、あまりに疑似科学的な言説に満ちあふれています。思考実験ならぬ想像実験と呼ぶべきものでしょうか。考えようによっては荒唐無稽の極致で、『時間泥棒』では、時間を食べる虫のような存在を絶滅させるために、ハーメルンの笛吹き男のように、おいしそうな電子機器を満載したトレーラーを牽引したトラクターを走らせ、スーパーコンピュータを積み込んだ大型コンテナ船に虫を移動させ、最終的に船もろとも深海に沈めるというあたり、吹き出しそうになりました。両書とも、いくらでも粗を探せば出てきますが、そんな大人げないことをしても、SFファンに笑われてしまいますので、控えておきましょう。

 そんなことよりも、想像力の飛躍が詩的イメージになっていると感じられる部分がなかなか魅力的でした。例えば、『時間泥棒』で、「どこかほかの宇宙で固体に見えるものが、われわれの宇宙では時間のようなものであるということは考えられないでしょうか?・・・その固体を食物にしている虫のようなものがいたら、それを食べるとこっちの時間に穴があくことになる」(p112)とか「虫が時間を食べて空間を排泄すると言うんです」(p137)。『時間衝突』では、「異星人はこの星にやってきて、種をまいた・・・その種はゆっくりと成長してきた、ただし、草やら野菜やらになるわけじゃなく、石と金属の構造物に。いまわれわれが目にしている遺跡は木みたいなもんで、何世紀もかけて成長し、やがて家や街や城になる」(p65)とか、「過去は消え去るわけじゃない、たんに見えないだけだ―われわれの前に存在するにもかかわらず、未来がまだ見えないのと同じに」(p70)、「われわれの宇宙の一瞬一瞬に対してひとつずつ、同一の宇宙が無限に存在しなければならない」(p191)とか。

 『時間衝突』で、地球を支配しているタイタンという種族が出てきますが、その全体主義的で統制的なあり方や、指導者リムニッヒのドイツ語的語感などからすると、ナチスがモデルになっていると思われます。タイタンの将校が、宇宙に浮かぶレトルト・シティの上部構造の町の文化の成熟を見て、頽廃芸術、頽廃科学といった評価を下しているのは、ナチスが退廃芸術を告発したことを思い出させます。また、そのレトルト・シティの住人に対して、タイタンの少尉がチンク(中国人)と呼び、「悪魔のようにずる賢いチンク」ということわざを引用するあたり(p153)、アジア人に対する偏見を剥き出しにしているようです。