清水茂『詩と呼ばれる希望』


清水茂『詩と呼ばれる希望―ルヴェルディ、ボヌフォワ等をめぐって』(コールサック社 2014年)


 フランスを舞台にしたエッセーを読んでいたら、なぜか清水茂を読みたくなりました。この本は、清水茂のフランス滞在を題材にした初期エッセイとは違って、副題にあるように、ルヴェルディ、ボヌフォワシュペルヴィエルの詩や詩論を軸にして、詩について語ったものです。取り上げられている詩は、私好みのものが多く、また上記3詩人の詩についての考え方にも共鳴する部分があり、面白く読めました。ただ違和感のある著者の文章もいくつか目につきましたが。


 とても心に響いた詩句は次のようなものです(すべての引用ができないので核心の一語のみ)。
扉の前で一人の男がうたっている/音もなく窓が開く(ルヴェルディの詩集『屋根のスレート』より「秘密」最終行)→これには著者の次のような解説がある。「標題の『秘密』は読後なお秘密のままであり、それは散文的に解き明かされることがない・・・窓を開くのは、誰なのか。周囲では、あらゆるものが深い静寂のなかに依然として身を潜めているのが感じられる」(p10)。

見知らぬあの男は何処から来たのか・・・いつも同じ人が立ち止まる(同詩集「忍耐」途中行と最終行)→これにも、「この詩篇にも、不安めいたものの漂う空気がある」(p11)という解説があった。

雪が降る、それは帰ってゆくことだ・・・自分がべつの子ども時代を幸福に生き得たかもしれない町に(ボヌフォワ詩集『雪のはじまりと終り』「唯一の薔薇窓Ⅱ」冒頭連)(p108)。

そこには、泡のなかで/かつてのおまえだった子どもがいまも遊んでいる(ボヌフォワ詩集『碇の、ながい鎖』「イタケ島のまえを行くウリセス」最終行)(p143)
→最後の一行に重い意味が込められている詩が多いところからすると、最初にこれらのフレーズが浮かび、それから逆算して詩全体が書かれたのかもしれません。

 墓碑銘の詩句は死者と生者を繋ぐ絆であり、時空の隔たりを超えて人間感情に深く訴えるものであるとして、ボヌフォワリルケ、蕪村などがいくつか引用されていますが、ユルスナールが編訳した古代ギリシァ詩華集『冠と竪琴』に収められた墓碑銘としての詩「逝いた子のために」(p37)がとても感動的です(長いので引用は略)。

 もうひとつ詩ではありませんが、美しい文章。
庭の奥でひとりの子どもの姿を見かける。まさしくかつての自分であった子どもの姿である。―「私はきみの小さな顔を手で包みたい、わが神よ。きみの顔をそっと私のほうへ向けたい。こう言いたい、目を開けて、私がこんなにも彷徨してきたことを許しておくれ、と」(ボヌフォワ『彷徨する生』の冒頭「本を読みなさい」)(p149)。


 詩についての考えに共鳴した部分は、
アンリ・ブレモンの文章のなかの「一篇の詩の魅力に捉えられるということはその詩の意味を把握するということではない」という一節(p166)。

シュペルヴィエルが試作法を明かした次の文章。「〈詩〉は私の場合、いつも潜在的な一種の夢に由来している。この夢が勝手に進んでゆくという印象のあるインスピレーションの日々は別として、私はこの夢に好んで方向を与える・・・私はそれを堅実な夢にしたいのだ・・・そして、この夢にとっては、外部とは白紙のページのことだ」(p169)。

バシュラールの「目で見ているものを同時に夢想したのでなければ、ほんとうによく世界を見たことにはならない」という言葉(p171とp232の2回出てきた)。

「おそらく、詩のことばとはもっとも単純な用いられ方によって、もっとも言語に託すことの困難な実質を表現しようと試みるものです」という著者の感想(p180)。これに続いて次のように書いていました。「詩においては・・・概念的解明が必要なのではなく、詩を通じての、発信者と受信者とのあいだでのイデーの共鳴、もしくは共振の生じることが必要なのです。これは〈詩〉の体験の直接性ということでもあります」(p180)。


 この本のなかの議論で、もっとも重要と思われる部分は、難しすぎて私には捉えきれませんが、いくつか記しておきたいと思います。ひとつは、現実把握にかかわる哲学的と言っていいほどの議論で、ルヴェルディの「現実のものとは、単純で、深くて、恒常的なすべてのもののことであり、時が齎(もたら)しも、持ち去りもしないものであり・・・(雲やテーブルは、太陽や雨や樹木同様、現実のものである。衣裳の個別のかたちは非現実である・・・)」(p15)とか、ボヌフォワの「現実のものとは、私たちの知性がこれは樹だと言うまえに、目にみえている樹なのだ」(p17)という言葉などに現われています。プラトンイデアに通じるものがあると思えますし、一種の言語論のようにも見てとれます。

 もうひとつは、詩の体験に関することで、ルヴェルディの「詩は客体のなかにあるのではなく、主体のなかにある・・・感動が形成されるのは主体においてだ・・・ところで、知覚と関係の選択とはそれぞれの主体ごとに変化する・・・同一の価値を正確に付与する知覚や選択というものは、おそらく、この世に、二つと存在しない」(p21)とか、「詩を理解するということ、あるいは自らのものとして、それを体験的に受け取るということ、それには他者の夢の領域に入ろうとすることに等しい困難がある」(p24)と、他人の体験や詩の理解の不可能性に言及があったり、

 さらには、「眠っていた獣のかたちの草の凹みがまだ宿っている。この草の凹みこそは象徴でもあり、最初のことばの誕生でもある・・・だが、草の凹みはやがて消えてゆき、ことばは・・・この直接的記憶から、時を経るにつれて次第に遠ざかって・・・抽象的な世界像を私たちに供することしかしなくなる」(p52)というボヌフォワの言葉を受けて、著者は、「抽象的な概念の世界の全体の網目のなかに組み込まれてしまった言語そのものに、何としても原初の記憶を喚起させる必要がある」(p60)として、詩の重要性を確認しています。


 違和感を感じた部分は、長々とは書きたくありませんが、次のようなことです。著者は、科学技術や物質的欲望を原動力としている近代文明を呪っていて、例えば、「さまざまな科学的発見は真実のためというよりは、産業社会にあって、国家、企業体の利益追求のために推し進められているというのが自明のこと」(p200)というような単純で教条的な語り口のあげくに、「専門外のことなので、よくは存じませんが」(p231)とポロリと本音を漏らしています。まさしくこの態度が近代合理主義の賜物だというのに。さらに、「このような状況のなかで、それでは詩には何が可能なのでしょうか」(p162)と問いかけていますが、詩はそうした観念的世界把握とはまったく別種のものであるはずです。他にもありますがこれくらいに。