矢内原伊作『顔について』


矢内原伊作『顔について―矢内原伊作の本 1』(みすず書房 1986年)


 前回読んだ清水茂『詩と呼ばれる希望』の解説で、担当編集者が、矢内原伊作と清水茂がともに雑誌「同時代」の同人であり、深い交友があったことについて触れていたこともあり、架蔵していた矢内原伊作の本を読んでみました。これまで、単著としては、昨年に『古寺思索の旅』を(10月20日記事参照)、かなり昔に『歩きながら考える』を読んだことがあります。いずれも、高い評価をつけています。

 矢内原伊作は、本来的に哲学の人で、詩人の要素も感じられます。何よりも、自分の頭でいろいろと思いを巡らし、感性を研ぎ澄ませ、情熱的に語っているところに魅力があります。文中に、既存の哲学者、思想家の名前は一切出てきません。ひと頃、大森正蔵や彼の弟子筋の哲学者たちが、やはり同じようなスタンスで哲学を語っていたことを思い出します。

 語り口のひとつの特徴は、冒頭の「顔について」で顕著に見られるように、日常的な言葉の使い方からわれわれの物事の捉え方を考えたり、日常的な体験に基づいて思いを巡らしているところです。例えば、「壺には手があり机には足がある。しかし顔のあるものはない。顔を合わせる、顔出しする、顔つなぎ、顔触れ、顔みせ。これらの言葉において顔は人間そのものを意味している」(p5)とか、「見分けるのは理性の能力であり判断することであるが、聞き分けがよいとはただちに従うこと」(p26)といった具合。

 また、後半の「水との対話」、「火との対話」、「石との対話」の三部作は、バシュラールの物質の詩学に通じるものがあります。「顔について」の「鼻」、「口」、「耳」、「眼」で展開されているものも五感をめぐる哲学と言えるでしょうし、「海について」と「山の感想」の山と海という視点も新鮮です。これらは、自然に取巻かれた人間世界のなかでの根元的な要素となるもので、それらの考察をとおして人間世界の成り立ちを探ろうとしているかのようです。

 思考のパターンが一つあって、それをいろんなケースに適用させているのが見てとれます。それは、二つの対立するものを、双方が互いに相手を成り立たせるための必要不可欠な存在と見なし、相互に入り組んだものとしてとらえる見方で、アンビバレントのなかに一種の美学が感じられます。私の説明が行き届かないので、実例を見るのがいちばん理解しやすいと思います。少し分量が多くなりますが、引用しておきます。

(引用者注:能の女面について)・・・いかなる表情ももたないことによってあらゆる表情をもっており、いかなる顔にも似ていないことによっていかなる顔にでもなることができる。表現はただ一つのものをあらわすが、象徴は隠すことによって一切をあらわすのである/p8

顔には裸体がない・・・脱ぐことのできない衣裳を始めから纏っているからであり、むしろ顔そのものが衣裳だからである/p9

人は化粧によって顔をつくるように表情によって感情をつくる・・・気分は顔色にあらわれることによってはじめて気分となる/p12

自ら変化するものは変化そのものを知らない。変化そのものを知っているのはそれ自身は変化しないものである/p93

山は・・・行く手に立ちふさがり、視界を限る。しかし同時に一つの山はその向こうに横たわるもう一つの山を思わせ・・・世界が無限であることを思わせるのだ・・・閉じることによって開くこと、これはまたあらゆる芸術作品の本質的な性格でもある/p113

火は自分自身をほろぼすことによって他を照らす。燃えること、それは死に近づくこと、あるいは刻々に死んで行くことだ/p140

人類は考える前にものをつくったのであり、ものをつくることによって考えることを知ったのである/p164


 また、着眼点が実に的確で面白い。

一度口から出た言葉はもはやもとに戻すことはできぬ・・・語る口は言葉の出口であるのみならず、そこからわれわれの心が覗かれる口でもある。それゆえにわれわれは口を慎まねばならない/p20

聞きながら考えることはできず、聞くことは従うことである/p29

印刷術は語られ聞かれる言葉を読まれる言葉に変ずることによって、肉体による眼と耳と口との統一を観念に解体し、集団を個人に解体することによってまったく新しい文化を創造した・・・しかるにラジオは眼と耳と口との統一を耳に解体したのであり、それによって読まれる言葉をふたたび聞かれる言葉に還元したのである/p35

仏足石・・・歩み去った仏の記念といったものではない。目に見えぬ仏がそこに立っていることを示すネガであり、いわば生命という目に見えぬ、したがって石に刻むことのできない存在の陰画である/p192


 芸術論にもそうした特徴が現われています。

芸術作品の意味は、それ自体が完結した美しいものであることにあるのではなく、むしろそれ自体は未完結なものとして、そこにない現実の全体を喚起し、無限のひろがりのなかに向かって人を解き放つ点にあるのである/p113

制作過程がつねに計画通りに行くようなら、それは技術であって芸術ではない、といえるだろう。とすれば芸術は、その制作意図と結果とのあいだに介在する不確実性によって特徴づけられる。何ができるか分からない、という危険な不確実性が大きければ大きいほど、制作のよろこびもまたいっそう大きくなる。技術は既知のものをつくり、芸術は未知のものをつくる/p146

芸術とは、生命の陰画あるいは印刻を示すことによって、目に見えぬ生命を喚起するものにほかならない。画布や石が美しいのではなく、それらによって喚起される目に見えぬものが美しいのである/p192


 こうして並べてみると、矢内原伊作の文章は、アフォリズム的な断言調に特徴があることが分かります。言い切ってしまうところに恰好よさがあり、また連綿と論理が展開していくところに、弁舌の芸のようなものがあります。散文詩と言っていいのかもしれません。思考の過程が明らかになるように、少し疑問形も挿みながら展開して行けば、もう少し柔らかい雰囲気になったと思いますが。

 
 私が共感した文章もありました。

山に登ることと山を見ることとは別のことだ。登攀には緊張があり、観望には解放がある。風来坊の私が選ぶのは無論後者の方である/p112

 今回は引用ばかりになりました。