:平野威馬雄『フランス象徴詩の研究』


                                   
平野威馬雄フランス象徴詩の研究』(思潮社 1979年)

                                   
 20年近く前に読んだ本の再読。衝撃的な『隠者の告白』で著者に興味を持ち読んだことを覚えています。当時の感想文には、内容の乱脈さ、編集の粗雑さに対して不満を書き連ねていて、評価もかなり低くつけていますが、今回読んでみて、散漫な記述のなかにも、隠れ見える首尾一貫した主張が読みとれたように思いました。研究者の緻密さには欠けるにせよ、象徴詩に対する情熱が感じられ好感が持てました。

 象徴主義の詩については、4年ほど前マルチノの『高踏派と象徴主義』を読んだことがありますが、内容は案の定すっかり忘れてしまっていたので、以前の記事(2012年12月7日参照)を見て、象徴主義が生まれるまでの流れをおぼろげに思い出しました。

 
 その時も思ったことは、象徴主義ロマン主義の変種だということですが、どのように変種なのか、今回の読書から、象徴主義の特質を、思想、技法、歴史的事実から拾い出してみます。
象徴主義はロマン派の《病気》の現代形式たるデカダン的魂と並行して現われたこと(p43)。
象徴主義は、ロマン主義以降のギリシャ文化陶酔、ゴチック様式の流行、ボードレール風の悪魔主義ワーグナー趣味を経ていること(p43)。
③なかでも、ボードレールの「コレスポンダンス」(万物照応)の影響は大きく、自然のイメージと魂との間の「交感」を重要視したこと(p275)。
④「名づけることは破壊すること。暗示することは創造すること」とマラルメが言うように、暗示が創作の原理となっていること(p210)。
⑤ロマン派では外部的類似を表現するメタファーにとどまったが、象徴主義は内部的アナロジーを大切にした(p59)。
⑥音楽を取りこもうとしたこと。ロマン派がなした古典詩の厳密な規則からの解放をさらに自由詩の方向へ押し進めたが(p71)、音綴や脚韻から自由になった分、内面の音楽的な抑揚を大切にするようになった(p153)。
⑦音綴では、ヴァルモール夫人の影響による奇数脚の使用(p115)。
⑧夢との親近性。言葉が日常の汚染を脱して新しい形象を生み出せるように(p227)、夢の世界を活用する道を選んだ(p225)。


 以上のなかにも著者の考えが反映していますが、著者ならではの見解は、日本や中国の詩や美学に象徴主義と類似のものを見つけようとしているところでしょう。中国の禅月大師が「宣和畫譜」のなかで夢の世界を描いた詩「三四人の小さい仙女が/瑟瑟の宝石の衣裳を着け/明月の珠を手に把って/金色の梨を打ち落とす/…/森森と茂った椿の下にいると/白龍が寄って来て人を嗅ぐ/…/崢糝たる宮殿に奇しくも紫気が籠り、/金の壕には玉の砂を底に五色の水が輝いている…」をはじめとし、『梁塵秘抄』や蕪村「北寿老仙をいたむ(晋我追悼曲)」、さらには俳諧の「さび」「しおり」「軽み」にまで筆が及んでいます。「玄」をobscurité(オプスキュリテ:闇、難解、曖昧)、「幽」をombré(オムブレ:陰影のついた、影った、ぼかした)と比較しているのにも興味をもちました。このあたりをもう少し多く語ってほしいと思いました。

 著者が一貫して主張し、最後の方で熱っぽく語っているのは、象徴詩は、何か見たものを再現したり、何かを表現したり、何かを象徴したりするものではなく、詩の表現そのもののなかに、無限の世界、他界や神の息吹が感じられることだということです。みどり児が喋る意味の分からない言葉が、怪しき他界の、遠い昔に、どこかできいたおぼえのある秘密であり、神そのものの言葉であるのと同様に、詩はそれ自身時を越えた経験をあらわし、別の天地として読者に現前するものだと主張しています。


 この本を読んで読みたくなったのは、禅月大師の詩(早速ネットで見つけて発注した。)、サント・ブーヴ「黄なる光線」、テオドール・ド・バンヴィル作品、エフラエム・ミカエルの詩集『秋』、モレアスの第二詩集『カンチレーヌ』最後の一篇「メリュジーヌ」。