
浅見克彦『響きあう異界―始源の混沌・神の深淵・声の秘義』(せりか書房 2012年)
以前、同じ著者の『時間SFの文法』(青弓社)を読んで、いろいろと教えられることが多かったのと(2022年3月10日記事参照)、最近読み続けている「異界」テーマに触れる本だったので、読んでみました。少し読みづらく私の理解の及ばない部分もありましたが、期待にたがわず有意義な読書となりました。前回も、時間SFを総覧する膨大な読書量に驚きましたが、今回も、補陀落渡海、西洋神秘主義、ニーチェ、空海、現象学に関する書物、小説では、安部公房から、川上未映子、伊藤計劃、サイバーパンクなど、幅広い資料をもとに論を展開していて、たいへん勉強になりました。
もっとも共感した主張は、「『別の世界』を『こちら』から隔絶された『あちら』として『想い』描こうとする求めは、私の関心の外にある」(p273)と言い切り、異界を現実世界と相互侵犯しあう関係のものとして捉えているところです。これは、ロジェ・カイヨワがファンタジーとの違いをもとにして、幻想小説を、現実への幻想の侵犯を描いた小説と定義したことに通じるものがあります。
以下、どこまで正確に理解できているか心もとないですが、いくつかの論点をピックアップしてみます。
①異界との触れ合いの鬼気迫る有り様について:
ア)藤原頼長の『台記』や『吾妻鏡』、また『北条九代記』などに、異界である補陀落山を目指して船出した僧の話があり、何度渡海してもまた那智に戻ってきたとか、琉球東岸にたどり着いたという事例もあるが、結局、補陀落山がどこにあるか特定できず、いずれも漂着先が不明であったり曖昧であったりする。後代の渡海が最初から死を覚悟する入水往生の性格を強めて行ったことを考えると、もともと、渡海者たちは、出立の時点ですでに補陀落世界に没入していたと考えるべきではないか。
イ)西洋の神秘主義において、異界を垣間見る信仰の世界があった。12世紀のシトー派、13世紀アントワープのハーデウィヒ、16世紀のアヴィラの聖テレジアに見られる神との合一の体験で、これは、旧約聖書の『雅歌』に原型があり、また宮廷恋愛詩のスタイルにも源がある。その体験は、バタイユの言う「小さな死」に通じる自己の融解であるが、聖テレジアの言葉、「この稀有な存在変容は説明しえない」「この世に生きる者がそれを説明できるほど深く理解することは相応しくない」や、ハーデウィヒの「この底なしの深淵・・・それがどのように形づくられているかを説明しようとは思わない。なぜなら・・・それは語りえないものだからだ」という言葉に見られるように、神秘の彼方に葬られている。
ウ)補陀落渡海を試みた者たちが、己の個別的存在を観音の威力に合一させたとしても、その観音の異相は人間にとってやはり深き深淵であり続けたし、聖テレジアたちのエクスターゼをともなって幻視された「合一の体験」も、理解を超えたものでしかなかった。「神的なもの」はあくまで暗黒の深淵として人間から遠く隔たってあるのだ。
②声の身体性について:
ア)口は単なる空隙であり、外とつながった空気の連続でしかなく、口から発せられる声は、もとは声帯の振動があるとはいえ、身体に属する現象ではないと言える。自分が発した声は、すでに制御不能の音となって場に響き渡る。
イ)音は、すべての存在を反響の森に巻きこみ、一つの全体のうちに溶かしこんでしまう。聞く側は、反響に包囲される中で、分立した個の意識がぼやかされ、反響の場と浸透しあうことになる。しかし、個体が消失して均質な空間が出現するのかといえばそうではなく、個体の境界に生起する振動として逆に個体性を浮き彫りにするのである。
ウ)臭いが周囲の捉えどころのない雰囲気の属性であるように、音にも、例えば、ある曲を聞いたとき、その曲を聴いていた時代の匂いが蘇るというように雰囲気的なものがある。この音の雰囲気的な属性は、言語的な意味とは違って、個人を超えては了解しづらいものである。→色もそうだと思う。
エ)声にはつねに「表情価」が付随しているが、言語の陰に捨て置かれてしまう。言葉には、例えば、ものを噛むさまを「もぐもぐ」というように音響からくる意味がつきまとっており、音声とそれが表わすものとの間に、結びつきがある場合が多いし、最初はそういった意味がなくても、話されていくうちに「情動的意味」が付帯されてくる。
③知覚のなかの異界について:
ア)サイバースペースをさまよう物語では、膨大なデータの網の目という異界が登場する。それは、意識に対して隠された潜在意識が鍵となっている。また、コリン・ウィルソンの『精神寄生体』の恐ろしさは、意識の届かぬ自己の奥底に、とらえどころのない虫(敵)が潜み、密かに息づいているという点にある。
イ)オルダス・ハクスリーは、能や神経系の機能が、知覚したものの大部分を閉めだし、日常的に有効なものだけを選別していると考え、メスカリンによって真の知覚世界を体験し、意識の全体性を回復させようとした。ティモシー・リアリーもドラッグによる意識世界の拡大を図った。彼らは、サイバースペースと同様、空間的な場所ではないところを異界として待望した。
ウ)小説では、言葉の様態の次元でも、概念的な意味を踏み外しながら異界が姿を見せる。すでにあるテクストをばらばらにしてつなぎ合わせるという「カットアップ」という手法もそのひとつである。映画では、固定カメラがほぼ360度パーンするカメラワークで、映像を時間的に意味づける座標軸を壊して、時間の異界を出現させる。