浅見克彦『時間SFの文法』

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浅見克彦『時間SFの文法―決定論/時間線の分岐/因果ループ』(青弓社 2015年)


 私の所持している限りで時間SF作品を読み続けてきましたが、ここからは時間SFやパラレル・ワールドなどについての評論を読んで行きたいと思います。まず多くの作品の例証を挙げながら論じているこの本から。説明が簡略化されていて、理解できない部分もありましたが。

 私が読みながら感じていたようなことは、すべて書かれていました。さすがに専門的に研究されている方のようなので、いろいろ教えられるところがありました。いくつかの特徴がありますが、まず最初に目につくのは、時間SFの多くの作品を網羅して、それをパターン別に分類していること、たぶん取り上げている作品の多さは類書のなかで抜きん出ているのではないでしょうか。

 時間SFのパターンとして、まず、意志と計画にもとづいて時間を移動するものをタイム・トラヴェル、否応なく移動した場合はタイム・スリップとして区別したあと、時間移動をしない場合と、並行世界へ移動する場合と合わせて、とりあえず4つに分け、さらにそのなかでの種々のパターンを挙げています。それぞれに具体作が紹介されていますが略(以下、すべての要約は私の個人的な理解で行なったものなので的が外れているかもしれません)。

 タイム・トラヴェルの部として、
歴史改変型:過去に旅した者は過去の事象に介入することになるが、それで大きく歴史が変わった世界を描く。これにはパラドクスの問題が生じる。
歴史不変型:過去へ旅した者の行為はすでにあらかじめ歴史として組み込まれているという筋立て。これは一種の運命論、決定論でもある。

 タイム・スリップの部として、
過去への郷愁を謳いあげるもの:ジャック・フィニーに代表されるファンタジー的な作品。
反復世界もの:何度も同じ時間を繰り返すことになる地獄のような世界。
シャッフルもの:人生のいろんな時期をランダムに移動する。
逆行もの:時間が逆行したおかしな世界を描く。

 時間移動しない部として、
異時間通信もの:舞台は現代だが、そこで異世界と手紙や電話で通信したり、過去や未来を見る装置が登場したりする。

 並行世界の部として、
改変偽装型:過去を改変したつもりが、時間線の分岐を引き起こして別の並行世界に入る。
偶然世界型:至る場面で並行世界が生じているとする世界観にもとづく。

 また別の分類の仕方と思われますが、次のようなパターンもあります。
因果ループもの:反復世界ものは単に時間が反復するだけだが、これは、原因と結果が円環をなして、互いに干渉し合うパラドックス的な世界。
自己重複の物語:タイム・トラヴェルした先で自分と出会う話。一人だけじゃなく複数の自分が出て来て混乱するのもある。
時間の外へ突き抜ける物語:時間から外れた虚無の世界が描かれる。

 そして、歴史不変型の決定論的な世界観や、並行世界の物語に潜む現在の不確かさをあぶりだす気分、因果ループものが持ついかがわしさについて、注意を喚起し、その後の論を進めているところが、この本の大きな特徴です。


 次に、この本の面白いところは、時間SFの作品のなかの時間のあり方を、小説の語り方とともに論じているところで、次のように論を展開しています。
時間SFでは、時間を逆行させるなどして、時間的経緯に従わないが、それが物語としての本物らしさを失わせてはいない。物語のリアリティは、現実世界との照合によってではなく、物語内の言説の相関的秩序によって支えられており、過去や未来に飛んだ場合でも、また並行世界をまたぐエピソードが展開される際も、直接的な因果が成り立ち得る。物語には、語られる世界の時間的継起とは別の時間秩序があるからだ。

 また物語を語る作者の視点のみならず、読者の読みのあり方も重要な要素として考えているところに、新しさが感じられました。
作者は、物語の結末から始めて発端へと遡るという具合に、あらかじめ全体を掌握して書いているが、読者は冒頭から線状の時間で物語を読み進んで行くという性質がある。そのため、因果ループ作品のなかにある堂々巡り的な時間のあり方には不自然さを感じることになる。しかしそれを救い、物語の本物らしさを作り出すものがある。本物らしさは、語られる世界の真実味ではなく、文章の滑らかさとエピソードの展開のリズムとメロディに基づく。それは、読みのテンションと充実をもたらす語りのあり方であり、例えば、物語の展開と文章が醸し出すユーモアによって、嘘くさい世界に読み手を引き込む仕掛けが挙げられる。
 時間SFには、しばしばユーモアの感覚が漂っているのには気づいてましたが、そういうからくりだったわけです。

 おそらく、著者がもっとも主張したかったのは、時間SFの持つ相対性やいかがわしさの感覚が、現在の文化状況の様相と通じていると断じている部分でしょう。
例えば、タイム・マシンの作り方を未来から教えに来た男が居て、それを作ると、その知識がタイム・マシンの作り方として未来に引き継がれるという因果ループに潜むいかがわしさは、現実の社会のなかで、話題のアイドルだとメディアが注目し、何がすごいかをそっちのけにして、相互作用的にどんどんアイドルの価値が増殖されて行く構図のいかがわしさと共通する。時間SFのなかに見られる過去・現在・未来の同時的相互拘束的決定の関係には、例えば上記の例で、誰がタイム・マシンを創ったのか不明なように、創造する主体がなく、個人としての意志と自由が完全に否定されてしまっている。この状況は、現代文化を生きる者たちの、ニーチェが「消極的ニヒリズム」として断罪したような精神の萎縮へと通じているのではないか。

 たしかに、そういった面があるのかも知れませんが、それを言ってみても仕方がないことです。CMにあるように、「で、どうする?」が問題で、ニーチェは、もう一方で、永劫回帰という時間ループに対し、「これが生だったのか。よし。もう一度」という運命愛に満ちた勇気ある態度で接することを説いています。もし因果によってがんじがらめになっているのであれば、よそ事として客観的に見るのではなく、その世界を引き受け、主体的に参加しようとする意志が重要ではないでしょうか。