カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』

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イタロ・カルヴィーノ米川良夫訳『マルコ・ポーロの見えない都市』(河出書房新社 1983年)


 これからしばらくは、架空都市、幻想都市、迷宮都市、異次元都市…に関連した小説、評論、詩を読んで行きたいと思います。まず第一弾は、この分野の先陣を切ったカルヴィーノの作品から。久方ぶりに読んでいて、静かな興奮を感じました。

 マルコ・ポーロフビライ汗に対して、旅で出合った都市について奏上するという形で語られますが、報告は9章に分かれ、章のそれぞれにプロローグとエピローグがついていて、マルコ・ポーロフビライ汗のやり取りとなっています。面白いのは、各章は5か10の報告からなっていますが、それぞれの報告には「精緻な都市1」というような小見出しがついていて、それが同じ章内で続くこともあれば、章を跨いでつながったりもすることです。この小見出しは、「都市と記憶」、「都市と欲望」、「都市と記号」、「精緻な都市」、「都市と交易」、「都市と眼差」、「都市と名前」、「都市と死者」、「都市と空」、「連続都市」、「隠れた都市」の11ありました。

 マルコ・ポーロの『東方旅行記』は読んだことがありませんが、少しはこの作品に似たところがあるに違いありません。13世紀の『皇帝の閑暇』の奇想天外な町の紹介を思わせるところがありますし、千夜一夜物語の架空の都市の香りもします。と思えば、アメリカのほら話のようなところもあります。近年の文学でいえば、シュルレアリスムモダニズムカフカの影もあり、ボルヘスも顔を覗かせています。

 マルコ・ポーロの語りを、一言でいえば、言葉の手品ということができるでしょう。フビライ汗に対して、トランプのマジックを見せるように、手品を繰り広げて楽しませようとしていて、読者のわれわれはそれを横から興味深く見ているといった感じです。架空のほら話を語るには、旅行記ほど最適な書きものはありません。現実の都市からできるだけ離れ、ヨーロッパから遠く、しかも中国でもない、どこにあるか分からないような場所を設定し、その見聞者として、歴史的実在人物であるマルコ・ポーロを登場させたわけです。

 本来、旅の見聞というのはノンフィクションのはずで、事実と思うからこそ興味が湧くわけですが、ここでは、小説作品として書かれ、しかも事実からは程遠い奇想天外な話ばかり。西洋中世の奇異な風物を記録した旅行記が、発想のもとになっていると思われますが、それらの旅行記は、あくまでも事実として書かれているなかに、伝説や筆者の想像がフィクションとして混じりこんでいるもので、一種の詐欺、騙りと言えましょう(初めから筆者も読者もほら話として楽しんでいるふしもありますが)。本作は始めからフィクションと読者は捉えているので、荒唐無稽な話をどこまで面白く読ませるか、読者はその手並み、つまり鮮やかなレトリックのトリックを楽しむという訳です。

 彼の語る都市は、中世の奇聞を集成した旅行記の枠をさらに踏み越えて、おとぎ話のなかの都市、観念のなかの都市を描いています。旅の報告と言っても、結局はすべて言葉で築かれたもので、観念的なものを入り混じらせるに好都合なわけで、言葉と実態との微妙なずれ、乖離をうまく利用して、不思議な世界を築き上げています。冒頭の一章から、独特の語り口で、その不思議な世界に引きずり込まれてしまいました。奇抜な想像力が満ちあふれていて、筆者は、どれだけ珍妙なほら話ができるかに傾注しているかのようです。

 どんな都市が語られているか、例をあげてみますと(ここからはネタバレ注意)、
船で入るか陸路で駱駝に乗って入るかによって異なる姿を見せる「都市と欲望3」のデスピーナ
その都市からはたくさんの思い出を持ち帰るが、同じものを見ていても人によってまったく印象が異なる「都市と記号2」のジルマ
人々は無数の都市があるなかの一つの都市だけに住み嫌気がさして来るとみんなで大移動するという「都市と交易3」のエウトロピア
出会う人はみんな知っている人だがみんな物故者で、そうすると私も死んだことになるのかと思ってしまう「都市と死者2」のアデルマ
細長い竹馬の脚が雲間に姿を隠すまでに高く伸びその上に人々が住んでいる「都市と眼差3」のバウチ
死ぬとミイラにされて地下に運び込まれ希望の仕事の姿勢で安置されるが、知らぬ間にそれらの死者たちが地下の町を変えていき、逆に地上の生者たちが死者の国を真似するに至る「都市と死者3」のエウサピア
毎日身の回りの品物を新しくするのでゴミが郊外に山と積まれるが、隣国も同様にゴミを積み上げるので、大崩壊が起こる「連続都市1」のレオーニア
宿の窓からのっぺりとしたまるい顔がとうもろこしを齧っているのを見つけたが、次の年は3人、その次の年は6人、そして16人、47人と増えていき、ついに窓の外は顔ばかりとなり、部屋にも26人が溢れて身動きができなくなっていたという「連続都市3」のプロコピア

 こうして見てみると、ナンセンスなユーモアを感じてしまう掌編が多いですが、観念的すぎて現実感の希薄な都市も数多くあります。例をあげると、
同じ地上に、同じ名の都市があり、その住民の名前も容姿も変わらないが、お互いに通じ合うすべもないままに、それぞれ盛衰を繰り広げるという「都市と記憶」のマウリリア
空港に到着するや出発してきた町とまったく同じなのに気がつき、別の町へ行こうとするがどこへ行っても町の名前が変わるだけで同じだと諭される「連続都市2」のトルーデ
何時間も歩き続けて一向に町の中心に辿り着かないまま通り過ぎてしまう「連続都市5」のペンテシレア

 もうひとつ面白い趣向は、「隠れた都市2 ライッサ」で、場面がどんどんバトンタッチされて繋がっていく描写。子どもが窓から犬に笑いかけ、犬は石工の落としたきび餅に食らいついており、その石工は若いお内儀(かみ)に声をかけ、お内儀は料理の皿を傘屋の親爺に持って行き、その親爺は儲け話に恵比須顔、というのは高額のパラソルを高貴のご婦人が買い上げたので、そのパラソルをかざして競馬場へ行ったのは、ある将校に首ったけだったから、その将校の愛馬が障害物の上をひらりと跳びながら見たのは空を飛ぶ山鶉で、その鳥が籠から放してもらえたのは、画家のおかげ、その絵を書物の挿絵にした哲学者は、「ライッサでは、目に見えぬ一本の糸が走っており、一から他へと一瞬のうちに結び合わせては解け、さらになお動いている点と点とのあいだに張り渡されて新しい刹那の図形を描き出す」と語る。

 この作品を文学的に香り高いものにしているのは、詩情と幻想が見事に結合しているところが多々あることでしょう。具体的な文章の見本をいくつかお見せしておきましょう。

言うなれば、雨あがりの宵の象たちの匂いと、香爐のなかで冷えきってゆく白檀の灰の芳香とに捉えられてゆく虚脱感。平面球形地図の赤黄色い背中にかきこまれた山脈や大河を震わせる眩暈(p8)

空間の寸法と過去のさまざまな出来事とのあいだの関係によりその都市はつくりあげられているのでございます。街燈の地面からの距離と吊るし首になった簒奪者のたれさがった両足、その街燈から正面の手すりまで張り渡された縄と女王ご婚儀の行列の道順を覆う花綵(はなづな)、その手すりの高さと暁にそれをのり越える姦夫の跳躍…(p15)

ある都市は鵜の嘴を逃れようとして網のなかに落ちる魚の跳躍によってあらわされ、つぎの都市は身を焼くこともなく火焔のなかを通りぬける裸形の男、第三の都市はきよらかな真珠を青黴に覆われた歯でくわえている髑髏によって示された(p31)

すると彼の夢のなかには凧のように軽やかな都市、レース編みのように透けている街、蚊帳のように透明な都、葉脈都市、掌紋都市、線条細工都市など、いずれもその半透明の虚構の厚みをとおして透かし見る諸都市があらわれる(p99)

 まだまだ本作品の魅力を伝えきれていないと思いますが、切りがないのでこの辺で。