:Marcel Brion『Le journal du visiteur』(マルセル・ブリヨン『訪問者の日記』)


Marcel Brion『Le journal du visiteur』(Albin Michel 1980年)


 マルセル・ブリヨン最晩年84歳のときの作品です。もともとブリヨンの小説は、展開が少なく冗長な印象がありますが、この小説はとくに、年寄りからくどい話を聞かされるように、少しずつ変化しているものの同じ話が何度も繰り返され、ややうんざりします。がそれが、この小説のテーマにあっていると思う一面もあります。

 というのはこの小説が幽霊小説で、古い館に住み着いた幽霊との本当かどうか定かでない接触を延々と書き記したものだからです。冒頭、誰もいないはずなのに階段を降りる足音が聞こえるところから始まっていろいろ予兆はありますが、なかなかその幽霊が出現しないところが興趣を盛り上げ、また霧の中から朧気に出てくる影のような存在に接触したかと思うとまたしばらく現れず、声が聞こえたような気がするがはっきりとせず、曖昧模糊としたまま物語が進行していくのに、この語り口がぴったり合っているからです。


 友人が長旅に出る間、彼の館に住まわしてもらった男の日記という体裁で、物語は進みます。概略ではこの物語の魅力は伝えられないと思いますが、下記に。
その館はずいぶん昔に建てられたもので山毛欅館と呼ばれていた。広大な庭があり、片側は森に続いており、もう片側は荒地で、その先には海に面した断崖絶壁がある。男は退屈まぎれに館のなかをさまよっているうちに、3階の角の部屋に蔵された多くの絵を見つけ、そのなかに婦人の肖像画があってその眼差しに惹きつけられた。1階の喫煙室にも乗馬姿の女性の絵が掛かっていて、どうやら同一人物のようだ。男は次第にその女性が現れないかと待つようになる。

庭師の従兄弟から、この館に100年ほど前に住んでいたアデライドという婦人に関する祖父の目撃談を聞かされる。冒険好きで馬を愛していたが、ある時、断崖から身を投げ馬も後を追ったのを、子どもの頃見たというのだ。村人の言い伝えでは、乗馬の途中に足元が崩れて断崖から落ちたということになっていた。彼女が肖像画の婦人とは限らないが、深く衝撃を受ける。

予兆はいろいろと現れる。犬と散歩の途中、馬のいななきが聞こえたように思って厩舎へ向かうと、何もなくがらんとしているのに犬が何かいるような素振りをしていたり、3階の角の部屋にいて婦人が入ってくるという夢を見たり、庭のベンチに居ると近寄ってくる足音が聞こえたりする。その足音の主は日を追って次第に肖像画と同じ姿を取り始め、男の前を通り過ぎて森へと消えて行くようになった。何度か経験するうちに、アデライドと呼びかけてみると、微笑んだような気がした。またある時は厩舎の前で、アデライドが見えない馬に向って何か語りかけているのを聞いたりする。

そしてついに、男が庭の東屋にいた時、アデライドが入って来て、断崖から身を投げた時のことを告白する。次に庭のベンチで、後にある台座を指し示しながら、幼い頃から愛していた彫像が台座から引きずり降ろされ断崖に投げ落とされる事件の顛末を語る。どうやら彼女が断崖に身投げをしたのはその像のもとへ行くためだと分かった。その後しばらく姿を見せなかったが、秋の終りに一度会ったきり彼女は現れなくなった。

季節は次第に冬となり、庭も殺伐とした風景となって、館にも興味を惹かなくなり、いちどは館を去ろうとするが、アデライドの夢を見て気が変わった。庭の奥に丸木小屋を発見するが、ある日、その小屋で隠者が祭壇で儀式の準備をしているのを見る。扉の外を見るとアデライドがこちらへ歩いて来るのが見えた。いよいよ彼女と二人旅立ちのときが来た。天国か地獄か。犬に別れを告げると、男は衣服や書きかけの日誌をそのままにして、忽然と姿を消した。


 男が妄想を抱き、それがどんどん現実を侵食していきます。記述のとおり、婦人の幽霊が現れ、婦人とともに黄泉の国へと旅立って行ったのか、あるいは断崖からひとり身を投げたのか、定かではありません。「時に、想像力がなせる業か、夢かと思うこともあった」(p197)というように、本人も自問自答しながら、少しずつ深みに入り込んでいきます。この「本当かどうか定かでない」という言葉や雰囲気は、他の小説にも共通するブリヨンの特徴といえましょう。

 いくつか面白い挿話や夢のシーンがありました。絵の中の帆船に乗ってどこかへ行きたいと思う少女がいて、ある日絵の中の帆船が消えていたが、そこに少女も乗っていたという挿話。旅行者はホテルの部屋には関心を持たないが、いろんな人生の吹き溜まりである部屋は妙な力を持っていて、眠り込んだ旅行者の夢を操り、夢の中に恐ろしい思い出を吹きこんでいるという妄想。3階の角の部屋にいるとアデライドが入ってきたので、勝手に入ったことを咎められると思って出ようと扉を開けたら、虚無しかなく足を踏み外しそうになって目が覚めたという夢。両側が海と沼地の一人しか通れないような狭い道で、向こう側から毅然とした態度の女性が足早にやってくる、どちらかが落ちてしまうと焦ったところで眼が覚めた夢。

 館には、女中と庭師と犬しかいません。そのスヴェンドという犬との愛情豊かなやりとりがこの物語の一つの軸ともなっています。ブリヨンの『L’ENCHANTEUR(魔術師)』の巻頭インタヴューに、ブリヨンの生活ぶりの写真が掲載されていて、それを見るとブリヨンも犬を飼っていたようで、犬が好きだったようです。写真を載せておきます。