Marcel Brion『Le château de la princesse Ilse』(マルセル・ブリヨン『イルズ姫の城』)

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Marcel Brion『Le château de la princesse Ilse』(Albin Michel 1981年)


 久しぶりに、ブリヨンを読みました。文章は前回読んだロチよりは長くなってやや難しくなりましたが、読み進むうちに慣れて、それほど難渋することもなく読めました。ネットで調べてみると、イルズというのはドイツ中央部ハルツ地方に実際にある地名で、山や川の名前にもなっており、イルズ姫という泉があり、また同名のホテルが1871年に建てられ人気を博したが、1978年に取り壊されたとありました。本作の主人公は旅人で宿が一つの舞台となり、泉も主要な役割を担っていますので、ブリヨンもこのホテルをイメージしていたのか、あるいは泊ったことがあったのかも知れません。本作が1980年に書かれているのはホテルへの追悼を籠めてでしょうか。またさらに遡ると、イルズ姫はこの地方に古くからある伝説のようで、マリー・ピーターセンという人のおとぎ話やハイネの詩にも歌われているということが分かりました。文中にイルズ姫の詩というのも出てきましたが、このハイネの詩の一節かもしれません。

 今回も、冒頭2ページほどでいきなり惹きつけられました。主人公が泊まっている旅館に働くグレートは20歳になるが、この旅館の主人に拾われた捨て子で、子どものころ二人の婦人客に誘われ馬車に乗り帰ってきて、城へ連れて行かれたのと言い、周辺にそんな城はないので、みんな訝ったという。彼女は主人公にだけ、その城の名がイルズ城で、私がイルズ姫と耳打ちするところから始まります。全体は大人向けのおとぎ話という感じで、全篇ドイツ浪漫派的な憧憬に満ちた作品。エピローグは、一種のハッピーエンドで、死を前にあの世の楽園を待ち望むブリヨンの息遣いが聞こえ、また長い物語を読み終えた感激と併せて、涙が出てきそうになりました。
 
 筋書きはあってないような茫洋としたもので、現実、語られる話、夢で見た話の三つのレベルが混在し、またいくつもの脱線や回想が短い物語として織り交ぜられています。それがこの小説の魅力ともなっており、拙劣な要約に意味はないと思いますが、簡単に記しますと、上述の冒頭部に続いて、
①イルズとは語り合う仲となり、イルズは自分の体験した城の様子を語り、主人公は自分の創作したおとぎ話をしたり、自分の幼い頃体験した城の話をする。

②イルズは、二人の婦人は城の王女で母と娘であること、城では毎年、「星の息子たち」がやってきて、パーティが行われているが、そこへ上品な男の子が花を捧げ持って登場したこと、またイルズが一目惚れした若者(イルズは知らないが実は戦死した幽霊)と一緒に、若者の両親に挨拶しに水の町へ行ったことなどを語る。

③主人公は、昔ロシアの貴婦人が水晶に憑かれ探しに行って遭難したモスコヴィッチ峰にまつわる伝説、幼い頃学校の先生が城をゴールにし生徒を騎士にみたてて面白く授業をした様子、それに影響を受けてか紙で城や建物を作ったこと、住んでた家の下の階のおばさんのところにジオラマのような城の模型があったこと、長じて夢の中で見た雪の城、断崖の上の城が崩壊していく様を語る。

④主人公は、イルズの夢の城に自分も入り込み、若者の両親が死んだ息子を発見して驚愕する場面をイルズのいない所で見たりする。さらに二人で水の中の城に行ったりもする。イルズは、年老いた王女に納骨所へ案内され、そこで栄華は朽ち果てるものと教えられ、また主人公の語る城の崩壊から、自分の城も崩壊していく予感に慄く。しかも、今は城へどうやって行けばいいか分からなくなっていた。二人で城へ行く道を探し回るが見つからない。

⑤ついに、イルズが見つけたと言い出発する。歩いているうちに次第に異次元の世界に入って行くような気がした。翌朝、森の外れで例の男の子が待ち受けており、主人公はここで別れなければいけないことを確信する。イルズはその子と一緒に森の中へ入って行く。宿に帰ろうとした主人公が振り返ると、森の中が透けて見え、イルズが城の人たちに大喜びで迎え入れられる様子が見て取れた。

 四行の詩が解きほぐされて、長大な物語になったという感じです。同じような場面が少し形を変えて何度も繰り返されて出てきます。それがいいという人もいるし、冗長だという人もいるでしょう。いつも書くことですが、ブリヨンの長編には後期浪漫派音楽(今回はマーラーで言えば交響曲9,10番あたりでしょうか)を聞いているかのような長大な時間があり、揺りかごであやされているような気持ちよさを感じます。これは胎内回帰の快さ、退行現象の一種なのでしょうか。

 ブリヨンの小説では、主人公は旅人で宿や城館に泊まるという設定が多く、森、山、砂漠、海の底などが主な舞台となり、次々に町を訪れたり、洞窟や迷路の探検をしたりし、見世物小屋やサーカス、広大な庭にある泉や彫像、馬や犬が登場します。小説群が何か一つの大きなサーガを形成していて、各作品は、お互いの物語を少しずつ含みながら、サーガの一断面を描いているように思われます。本作に登場する「ぶな館のアデライド」の幽霊は『訪問者の日記Le journal du visiteur』で主要な役割を演じていましたし、「星の息子たち」も『La ville de sable砂の都』に出てきました。

 細かいところで、いくつかの魅惑的な場面がありました。蝋燭の火が消えるあいだにバビロンに行って帰ってくる話。砂漠に蜃気楼のように現れ観光客が入って行くと客もろとも消える城。語りの前にコブラを踊らせると話に合わせてコブラが動くエジプト人の講釈師。楽屋に掛けられた版画中の往年の名優が幕間に急死した主役に変わって芝居をし喝采を浴びる話、片手に外したばかりの仮面を捧げ持ち別の手で背後の剣に手をかけている道化師の彫像、礼拝堂に飾られた旗に描かれた動物が夜動き出して戦闘を繰り広げる話、穴だらけになり溶けてゆく雪の城と轟音を立てながら崩壊する断崖の上の城、豪華な衣装と仮面をつけた若い娘たちが踊りながら老婆へまた骸骨へと変わっていく虚飾の部屋。

 イルズは20歳の女性、主人公の年齢は分かりませんが中年か老年の男性。この二人の間に、男女の感情や関係が一つも感じられないことも、この物語をおとぎ話風にしている理由のひとつだと思います。