:Marcel Brion『Villa des Hasards』(マルセル・ブリヨン『偶然荘』)

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Marcel Brion『Villa des Hasards』(Albin Michel 1984年)
                                   
 ブリヨンの文章はいつも遠くを夢見るような、ゆっくりとした口調で語られ、劇場や、公園、迷路、古い建物、仮装舞踏会、音楽などお決まりの素材が出てきて、またブリヨンを読んでいるんだなという豊かな気持ちが味わえます。今回は最晩年の作のせいか、さらにノスタルジーにも溢れています。

 読み始めの部分は文章に力が抜けていて読みやすかったので、私の読解力もついに少しは向上したかと思って喜んでいたらまた途中で難しくなってきました。ブリヨンではいつものことですが若干展開に乏しく説明が多いので、文章が難しくなると途端にだるくなってしまいます。優しくすらすら読めるところもありますが、ところどころ意味がつかめない文章が続くこともあって、語学力が上達しているのかどうかよく分かりません。


 簡単に言えば、ホテルに長く逗留している人たちがお芝居をする話で、最後に登場人物の二人が舞台からいなくなると同時に現実にも消失してしまいます。この物語の中心になっているのは、芝居の空間と現実の空間の交錯です。舞台で起こったことがそのまま現実に反映します。また現実(人間の運命)そのものが神の書いた芝居だというのもこの作品に一貫して流れている主張です。

 ホテルの客が芝居の練習をするうちに芝居が本当の世界のようになり、逆に休憩のときにはホテルの客の芝居をしているのではないかと思うようになるところは、荘子胡蝶の夢のような感じで、小説にしかできないトリックだと感心させられました。

 これが幻想小説だとはっきり言えるところは、舞台の最後に二人が塔の中に入った後塔が崩れ落ちる(音だけで崩落を表現する)のですが、気がつくと舞台の書き割りにあったはずの塔が二人の消失とともに消えてなくなっているというところです。

 ブリヨンらしき作家の主人公(一人称で語られる)と劇作家(実は保険会社の取締役)とが、劇と小説について語るシーンがあり、芝居と小説の共通点は観客や読者に演じ語っていることが本当のことだと思わせないといけないという点、相違点は、演劇の場合舞台と観客の間に余計な空間があるのに対し小説は直接想像力に働きかけるので、小説の方が読者との距離が近いという点、しかし舞台には生身の肌触りがあるということなどが語られています。

 ノスタルジーが感じられる部分は、幼い頃のサーカスの道化への憧れや学生時代の演劇活動を思い出して芝居に参加しようと決断するところ、昔訪れたアラビア風中庭の情景への想い、北欧で見た劇場の倉庫にいろんな道具があったことを思い出すところ、子どものころ聞いたロシアの伝説キテージの思い出、そして偶然荘の劇場にかつて演じられた数々の悲劇のこだまが響くというような描写に表れています。

 キテージの伝説が後半部で彼方の幻影のように語られますが、ブリヨンの短編集『Les Ailleurs du temps(いまではないどこか)』の「Ce pays qui n’est pas de maintenant…(今でない国)」でもキテージへの憧れが語られていました。よほどお気に入りと見えます。

 この憧れの感情は、他にもボードレールの「旅への誘い」の「遠くで一緒に住む優しさを感じてみて」という詩句や、アルプスの山小屋、ギリシャの白い建物など、行ったこともなくこれからも行けない憧れの土地として表現されています。

 ノスタルジーと憧れは同じものなのかもしれません。


 ステージの上で存在しないことになっている存在として、日本の黒子に譬えるところが出てきます(p104)が、ブリヨンは日本のことにもかなり詳しいようです。


 最後に文中で印象的だった一語。
le Beau n’est que le premier degré du terrible.(美は恐怖への入り口にしか存在しない→少し訳し過ぎかもしれませんが)(p173) 『Nadja』の最後のフレーズを思い出すような、あるいはラブクラフトの『文学における超自然の恐怖』の冒頭の一句を思い出させるような言葉です。しびれますね。