:Marcel Brion『La fête de la Tour des Ames』(マルセル・ブリヨン『魂の塔の祭』)


Marcel Brion『La fête de la Tour des Ames』(ALBIN MICHEL 1974年)

 この本は国内の古本市で買った本。ブリヨンの晩年(78歳)の作。久しぶりに、ブリヨンを読みました。これでブリヨンのフランス書を読むのは12冊目のはずです。今回は、久しぶりなこともあってか、裏表紙の謳い文句を読んだだけでしびれてしまいました。実際に読んでみても、魅力的な場面が次から次へと展開して、ブリヨンの最高作かと思えるぐらいでした。

 長篇小説ですが、短篇小説を連ねた枠物語の構造をしています。あるカフェで知り合った男が著者に語った話という触れ込みで、さらにその男が知り合ったエルメト・デ・マルミ侯爵が真の語り手となって、物語が進行します。カフェの男は、友人の死の床で、招かれもしていない侯爵が友人の魂を抜き取るような仕草をしたのを奇妙に思って侯爵に近づきますが、侯爵から「魂の塔」という村で奇妙な祭があると誘われ、乗合い船に乗って出かけるというのが物語の始まりです。

 短篇として語られるのは、道中で侯爵が語る同乗のジョン卿の様々なエピソード、そのジョン卿自らが語った地獄下りの話、途中船が立ち寄った作曲家ステファノ・デラリアの館の挿話、川岸で船を呼び止めた雑誌記者が取材した魂の塔の昼の祭の情景、途中から血相を変えて乗り込んできた男の夢とも現とも定かでない話、ジョン卿がひと頃熱中した女優マファルダと犬の因縁噺、アラルドと歌姫エリカ、その娘マリアンヌの物語、百泉の狂人の末路、そうこうしているうちに一行は最後に魂の塔の祭に到着し大団円を迎えます。

 いくつかの印象的な場面があります。ジョン卿が恋人を探すため井戸の奥へもぐりこむと、長い通路があり、端まで行くとどよめきが聞え、目の前が開けて多くの船が停泊している川岸の港の情景が広がり、その中にかつて遭難した船の名前を読みとる場面(p46)、船に血相を変えて乗り込んできた男はその前列車に乗っていて、美しい女性の個室に偶然入ることになったが、傍らに置かれていた本をめくると、自分の過去が挿絵とともに書かれ、現在の列車の中の情景までもが描かれていたので、気になって次の頁を見ると真っ白だったという箇所(p96)、列車から降りた男が、人混みを避けて中庭に逃げ込んだらそこは舞台で、窓から大勢の観客が見ていたという展開(p104〜108)、その男が子どもの頃に段ボールで作った町とおぼしき中を歩き、そのとき時代や地域の異なる人物を一人配したのが今の自分だと気がつくところ(p112)、その男が聖具係に連れられて教会のコンサートへ行くと、列車の個室で「またお会いするでしょう」と謎めいた一言を残して去った美女がまた現れると同時にすべての情景が舞台の装飾を取り払うかのように消え去り、眼前には線路が蜘蛛の巣のように広がっていたという場面(p127)など、幻想的で、劇的です。

 井戸の奥に過去の遭難船が停泊している港を見たり、線路が蜘蛛の巣のように眼前に広がっていたというのは困惑のテーマということができますし、未来を見ようとして白紙だったり、大勢の観客に取り囲まれた舞台の上にいるというのは悪夢のテーマで、不安が夢に投影した情景だと単純な夢判断ができそうです。また、この作品のいたるところで、オルフェウスの冥界下りやアケロンの渡し、アダムとイヴの追放、ファウスト伝説ギリシア悲劇の近親相姦など、神話的な原型的情景が再現されている気がします。

 他にも、ゴーレムに叩き落とされたホムンクルスの入った箱が川に落ちて割れ、燃える液体の中でホムンクルスが縮こまって喘いでいるのが見え、液体が燃えつきた後にはどろっとした卵白の塊しか残っていなかったというシーンや(p220)、黒鳥の姿をした魂が教会の中に入ると、羽をマントのように畳んで、信心深い老婆の姿になって椅子に座るというところ(p249)は映画の一場面のようです。

 文章については、侯爵の語りと、話者(カフェの男)から見た地の文が微妙に混じり合い、膨らみのある叙述となっています。ステファノ・デラリアの館を描写したあたりは(p66)、レニエよりは説明的ですが、明らかにレニエの系譜上にあることを感じさせる文章です。

 「船が繋がれていた桟橋に戻ると、湿ったロープがぶら下がっているだけだった」(p251)という最後のシーンは、もう戻れないという絶望と郷愁の入り混じった思いを搔き立てられますが、ボルヘスの原作をもとにした映画『暗殺のオペラ』の最後のシーンで、ようやく探し当てた駅の線路が草ぼうぼうの廃線になっているのを見て主人公が啞然としている場面を思い出しました。