:MARCEL BRION『LE CAPRICE ESPAGNOL』(マルセル・ブリヨン『西班牙綺想曲』)


                                   
MARCEL BRION『LE CAPRICE ESPAGNOL』(Gallimard 1929年)

                                   
 ブリヨンの小説処女作。オデオン座広場の古本屋dilettanteの店頭均一棚で5ユーロで売られていた見っけもの。ブリヨンの文章はもともとそんなに難しい部類ではないし、知らない単語もそう多くは出てきませんが、この作品はそのなかでも易しいほうだと思います。

 ブリヨンにしては、ごくまっとうな普通の小説の書き方をしています。まず舞台が現実の町で、スペイン旅行の途上の出来事を描いたものであること、客観描写的な叙述や会話が多く、独白的な地の文章が少ないこと、夢幻的な情景に没入して自分の好きなものをしつこく書き連ねることに淫していないこと。がすでに、後年のブリヨンでおなじみの村祭や列車、夜の教会、楽団、彷徨シーンが登場してもいます。

 フランスから女性とスペインへ旅行に来た男ベルナールが、コルドバで列車が停車中に飲み物を買ってくると言ったまま戻らず、アンドレ・アルデンと名前を変えてホテルに泊まり、闘牛好きのグループと親しくなって飲み歩く。漫然と過ごすうちに下宿に移り、スペインの踊り子と恋愛し一緒に住む家まで探そうとするが、母親の姿を見て幻滅し、母親もいい加減な男と見切って娘を諭しその恋愛は終わる。自分が何をしたいか分からないまま、友人の勧めで、セビリア聖金曜日の祭にキリスト役で十字架を背負って行列に加わったことをきっかけに、苦行僧の生き方に共感をおぼえ、乞食にすべてを与えそのまま自らも乞食となる。乞食仲間にそそのかされ教会での盗みに加担させられ、逃げるうちに列車に飛び乗ると、そこに置いてけぼりにした女性がいた、というのがあらすじです。

 主人公はどうやらブリヨンの分身らしく、小説家か文学者のようで、途中で「もし小説で書くなら何とでも説明できるだろうが、これは現実だから分からない。」(p43)という言葉が入ったり、ゴンゴラの研究をしている老人と出会って歓喜したり(p65)、白紙を前に自分の物語を描こうとしてうまく行かず「初めてベルナールは文学に絶望した」(p143)と嘆く場面がありました。これまでの自分の生活はエゴイズムに立脚していて、書物の世界に閉じ込められていたと反省しますが、文学や理屈、分析の世界を否定しながらも、冒頭から最後まで、なぜ自分が女性を捨てて逃げたのか、その理由をたえず自らに問いつづけ煩悶しています。

 村上光彦が大部のブリヨン論『イニシエーションの旅』の中で、ブリヨンの作品をイニシエーションを軸に論じていましたが、まさしくこの作品は処女作にしてそのテーマを正面から取り扱ったものだと思います。一種の自己滅却の過程と自己復元を描いています。旅の途上でそれまでの生活から逃げだし名前を変え知らない町で暮らすこと、次に激しい恋愛に没入すること、そしてイニシエーションの本道ともいえる十字架を背負う苦行体験、乞食の群に身を投じる自己抹殺。だが乞食の中にも序列やすさまじい生活の掟があり、最後は犯罪という代償まで負わされてしまいます。結局最後には、再会した女性に、架空の物語を語って聞かせるところで終わります。すなわち小説家としての自己を取り戻したわけです。

 初めの列車のシーンが最後でまた繰り返される円環的な物語構造をしていて、ドッペルゲンガーとまではいきませんが、人格が時間軸で二つに分裂した男を描いた小説ともいえます。

 スペインが舞台になっているのは、この作品の主要なテーマである「苦行を通じての法悦」にふさわしい場であるという理由が考えられます。スペインには過激な神秘思想の土壌があり、この作品の中でも、聖テレジアや病人を抱きしめたと言われる救済者ミゲル・マニャーラ、そうした神秘的場面をえがいた画家としてバルデス・レアルやムリリョ、エル・グレコの名前が出てきます。また、もう一つ隠れたテーマとして、フラメンコを踊る女性の生身の肉体とスペイン詩人ゴンゴラの詩に登場する象牙、ルビー、真珠や瑪瑙のような女性像の対比、すなわち時間に縛られた存在と永遠の美の対比について書きたかったからに違いありません。