:ガストン・バシュラール及川馥訳『大地と意志の夢想』

                                   
ガストン・バシュラール及川馥訳『大地と意志の夢想』(思潮社 1972年)


 「火」については以前に読んでいるので、いよいよ四元素のイマージュ論も最後の「土」になりました。と言っても土については二分冊になっているので、あともう一冊読まないといけませんが。書かれた順番も土がいちばん後のようです。

 土と言いながら、物質(固体)についてのイマージュを語るわけですが、冒頭でバシュラール自身も「物質は非常に多くの確乎たる経験をもたらし、またフォルムにしてもまったく明瞭で、明証的で、現実的であるゆえ、物質の内密性に達するような夢想は、どのようにすれば実現できるのか(p13)」と、移ろいやすく夢想が容易であった火水風に比べての土の困難さを告白しています。

 そのためか、他の元素をあつかったときと違って、テーマが分散した印象があり、とくに最後の方は、露など水に近いものを扱ったり、『空と夢』で取り上げた重力の主題をふたたび持ち出すなど、どこに土があるのかといった感じを受けました。

 全体の流れは、恒例により序で二巻にわたる大地についての考察の総覧を行った後、人間に抵抗する硬い固体と人間との格闘(第一章、第二章、第三章)、柔らかな固体、粘土(第四章、第五章)、四元素を統合する英雄としての鍛冶師(第六章)、岩石、石(第七章、第八章)、金属、鉱物、結晶(第九章、第十章)、露と真珠(第十一章)、そして最後に重力(第十二章)について語っています。

 この本で圧倒的な印象を受けたところは、後半の、雲を岩壁のように夢想したり、自然の墓石のような岩の無表情や、鉱物的月の夢想、癩病の岩石や病的に酸化した金属、煙の木や動く彫像など硬直化し石化する夢想、植物的生命の鉱物への延長、星座と宝石との一致、空の青さを閉じ込めたサファイアの空間のない深さ、火の噴流のイマージュともなる宝石、天上の物質にひたされた純粋な水である露など、イマージュが連綿と続いて行くところです。

 その中で、一片の晶洞のなかに別世界を発見する想像力の働きの記述があり、ジョルジュ・サンドの『ローラ』やザッヘル=マゾッホの小説の例が引かれています。この石のなかに風景を愛でる話は、ロジェ・カイヨワが『石に書く』で、バルトルシャイテスが『アベラシオン』で、またマルセル・ブリヨンも小説中で展開していました。この時期石のなかの風景というものが学者たちの多大な関心を引いていたんでしょうか。

 他に印象的だったテーマは、人と物の闘いで、バシュラールはマネジメント的な仕事よりも、「物質に対する仕事」を本当の労働として重視し、手仕事の親方を実体に対する闘いに参加している者として称揚しています。物に力を加える場合、支点をおいて紙を切る正確さと、槌で叩く打撃のエネルギーを併せ持つ、支点をおき槌をもちいた衝撃が、道具の弁証法を生み出すとしています。読んでいて手仕事の楽しさが伝染してきて何か作業をしたくなるような気分になりました。

 またこの本では、珍しく、読書について言及している部分があります。「ただ再読だけが力―イマージュを真に復活させることができる(p262)」とか、「意味作用の次元と、イマージュの次元との双方の次元を読まねばならぬ (p327)」と、再読や夢見るために立ちどまる読書を勧めています。

 さらに毎度のように、凡庸な詩の言葉、使い古された隠喩に対する激しい嫌悪感があちこちに読み取られました。


 つまらない要約はこのぐらいにして、本に直接語っていただきましょう。

実行にかかっている企て(物質的企て)は、結局、知的な企てとは別の時間的構造をもつ/p34

緩慢さはおそさを誇張したかたちで想像される。想像する人は、遅滞ではなく、減速を誇張して楽しむのである/p38

捏ねる行動は、ある面では肉づける行為とは対照的な行為である。それはフォルムを破壊する傾向があるからだ/p104

盲人によってつくられた彫像・・・《嘆願する若者》・・・一人の盲人によって生きられた、内側から生きられたフォルムであり、またフォルムは懇願の筋肉を実際に活動させて生きているのだ・・・フォルムの畸型は、力動的には大きな真実さをあらわしうるのだ。もし夢が怪物を作るとすれば、それはこの夢がさまざまな力をあらわしているからである/p113

シジフォスのこの責苦とは、少々長すぎるフットボールの試合なのである。どんなスポーツだって、ペシミストの目から見れば不条理の比喩に使われることだろう。・・・翌日になればだれの上にもまた日は昇るのだ。ひとびとは生きることを、仕事をまた開始する。力動的想像力の秩序の下にあっては、始め良ければすべて良しなのである/p200

水の夢想家にとって、葡萄は果肉と肉、液と果肉であり、火の夢想家にとって、それは太陽と炎であるが、鉱物の夢想家にとっては宝石、ルビー、硬い緑玉髄でしかない/p223

それは青色の抹香から流れてきた煙がそこにきてかたまり、年とともに凝固し、蒼白となり、身をよじらせながら螺旋状に円柱を形づくってこうなった、という空想を誘うものだった/p224

彫像が歩きはじめたり、肖像画がふとまばたきして見つめたり、壁掛けの人物がふくらんで、立体となり、壁から抜け出してくるなど/p230

彫像とは、人間の姿で生まれようとしたがっている石であると同時に、死によって動けなくされた人間存在でもある/p231

科学的知識の大衆化が、金属に長期間結びついていた夢幻的状態を停止させてしまったのだろうか/p240

概念が機能するさいには、細部を無視する。イマージュは逆に細部を統合する/p260

一個の石の窪みにある晶洞が、山の洞穴の鍾乳洞に類似するのは、いかなる秘密、いかなる不可思議によるのか/p280

宝石の前では《どんな暗い闇でも、宝石の光の強烈さを隠したり、陰影をつけたりできないばかりか、かえって闇そのものが姿を隠さねばならない》・・・暗闇が暗闇の中に身を隠し、闇が光におしのけられる不思議なイマージュ/p306

天上の露の母胎になる石はとりわけ透明な石であり、その中心にもっとも美しい水をいだく結晶であり/p319

隠喩は無からは生じない。隠喩は原初のフォルムで判断すべきであって、その使い古したフォルムで判断すべきではない/p368