:ガストン・バシュラール小浜俊郎・桜木泰行訳『水と夢―物質の想像力についての試論』


ガストン・バシュラール小浜俊郎・桜木泰行訳『水と夢―物質の想像力についての試論』(国文社 1995年)

 前回の『空と夢』に引き続いて、バシュラール四大元素の物質的想像力に関する著作に挑戦してみました。『空と夢』同様美しい文章がいたるところにあり本とともにある時間は気持ちよく過ごせました。

 ただし今回はさらに難しくなり、冒頭から訳分からず状態。何度読んでも頭に入りません。本論に入ってからは少し分かり易くなりましたが、宇佐見英治が『空と夢』でわざわざ「訳者まえがき」というのを設け、「序論は飛ばして先に中味を読め」と書いていたのは、この本にこそあてはまる言葉だと感じました。

 全体としてもおそらく半分ぐらいしか理解できていないと思います。もしかするとフランス語の本を読むよりも難しかったかもしれません。困ったことには、日本語なので個々の単語の意味も分かり、文章のかかり具合も明瞭なのに、文章全体として何を意味しているのかが分かりませんでした。

 理解できないけれど、なにかとても深くて魅力的です。とくに節の最後は力の入った箴言めいた詩的文章で終わることが多く、意味不明だけども美しいのです。例えば「物質の根元には暗い一本の植物が生育し、物質の夜には黒い花々が咲いている。花はすでにビロードと香りの方式を所有している(p11)」「水の傍らでの夢想もまた、水中に没する世界のように、おのれの死者たちを再び見いだしつつ死んでゆくのである(p76)」「形式は完成する。物質はけっして完成しない。物質とは際限のない夢想の図式なのである(p167)」というような具合。


 この本を読んでおぼろげに分かったことは、バシュラールの取り組んでいる領域が、科学や論理学とは反対の極に位置するイマージュの世界で、その近隣には、心理学や神話学や言語学、文学や詩の世界があるということ、それまでの哲学が放棄していた物質に関する考察を試みようとしたこと、考察の方法としてはイマージュの世界に深く沈潜すること、そして例えば精神分析学が固定的なコンプレックスの概念を用いたことの反省として、静的な固着した世界ではなく、意志の観点を導入し、反対物との格闘を通じた力動的な弁証法を用いようとしていること(我ながら何を書いているのかおぼろにしか分かりませんが)など、稚拙ななりに理解した次第です。

 この本では、水についての考察を始めるにあたって、水が他の三元素と異なる特徴として、表面的で優しいこと、移ろいやすいこと、しかしその一方で深さも持つと指摘した後、水辺で水を覗きこむナルシスから、水の上の白鳥(第一章)、ポーの水のイマージュが死と結びついていること(第二章)、さらに進めて死者の乗る舟や水死したオフィーリア(第三章)のイマージュについて語っています。

 その後、水が他の元素と複合して形作るイマージュについて、水と火、水と夜、水と土の組合せについて取り上げ (第四章)、次に水の母性について乳との関連で (第五章)、水の純粋性を泉のイマージュで(第六章) 語り、水の力動的なイマージュを「荒れる水」という第八章で展開します。最後の結論の部分では、言葉の世界にまで入り込み、水の流れと言葉の流音という現象との関連(そこまでやるか!)について考察しています。


 第二章のポーに関する記述のところと第四章の水と夜のイマージュのところが最高の盛り上がりを見せていて、圧巻だと感じました。

 訳者あとがきで、日本の現代詩のなかに見られる水のイメージを列挙しながら、「わが国の想像力に挑む、憂い顔の騎士あるいは放浪の(あるいは宮仕えの)錬金術師の出現が望まれよう(p330)」と書いていますが、だれか日本でバシュラールの後を継ぐ人は出てこないものでしょうか。


 印象に残った文章を引用しておきます。

澄んで明るい水のイマージュつまり純粋な水について語りかけるこの美しい同義語反復がなければ、純粋性の観念はどうなるだろうか/p28

湖は大きい静かな眼である/p50

力動的なポエジーにおいては、事物はそれが在るものではなくて生成するものなのだ。事物はイマージュにおいて、われわれの夢想、終りのない夢想のなかで生成するものである。水を観想すること、それは流れ出ること分解すること死ぬことなのだ/p76

水はもはや飲まれる実体ではなく、飲む実体なのであり、黒いシロップのように影をむさぼり飲むのだ/p86

彼(ポー)において瞑想された各時間は、悔恨の水に合致するであろう生きた涙に似ており、時間は一滴ずつ自然の大時計から落ち、時間が生きている世界とは涙を流す憂愁のことなのである/p87

冬ごとにひとつの影が離れて「黒檀の液体のなかに」落ち、暗闇に吸いこまれる。年ごとに不幸は重くなって、「さらに暗い亡霊はさらに黒い影によって吸いこまれる」のだ。そして週末がおとずれ、暗闇が心と魂に存在し、愛する人びとがわれわれから離れて喜びの太陽がみな地上を去ったとき、影たちでふくれ、悔恨や暗い呵責の思いで重くなった黒檀の河は、おのれの緩やかで鈍い生活をはじめるであろう。この河はいまや死者たちを思い出す元素なのである/p88

液体の全部は、ひとつひとつが特殊な色を有する数多くのはっきり分かれた水脈で作られており、これらの水脈は互いに混合せず、その凝集性は組成の部分である分子については完全であるが、隣接する水脈については不完全であることにわれわれは注目したのだ。断面を貫いてナイフの切尖きを通すと、水は再び切尖きの背後で閉ざされ、またナイフが引き抜かれるとき刃の通過した痕跡はみな直ちに抹消されたのである/p92

ポーにおいては美は死によって報いられる・・・言いかえれば、ポーにおいて美は死の一原因である/p97

口を閉じてしまった水がなおわれわれに語りかけるのには、夕暮れの風で充分であろう。…幻影がふたたび波の上を歩むには、かくも優しく蒼ざめた月の光で充分であろう/p107

月光に長く曝された水は有毒の状態をつづけるであろう/p135

水と夜は互いに共通の香りを帯びてくるように思われ、湿った影は二重のさわやかさを含んだ香りをもつように思われる。水の香りがよく匂うのは夜だけだ/p154

物質的想像力にとって、価値を付与された実体は、微小な量でも、他の諸実体のきわめて大きい塊量(マッス)に働きかけることができるのだ・・・純粋な水の一滴は大海を浄化するのに充分であり、不純な水の一滴は宇宙を汚染するのに充分なのだ/p208

引用がまた多すぎましたか。