:川崎寿彦、庭と森の英国社会史二冊

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川崎寿彦『庭のイングランド―風景の記号学と英国近代史』(名古屋大学出版会 1983年)
川崎寿彦『森のイングランドロビン・フッドからチャタレー夫人まで』(平凡社 1987年)

                                   
 20年以上前に、同じ著者の『楽園と庭』『鏡のマニエリスム』『楽園のイングランド』を読んだことがありますが、面白かったという漠然とした印象は残っているものの、中身は何も覚えておりませんでした。今回、『庭のイングランド』を読み始めて、第一章冒頭から核心をついたフレーズが続出して、密度の濃い書物だと感じると同時に、昔の印象がよみがえって来ました。

 この著者の手法は、『庭のイングランド』の「あとがき」にあるように、「バラとか、鏡とか、島、犬、旅、森、家など、鍵になるようなイメジの機能の変遷をたどることによって、・・・文学の歴史の側面を浮き出させよう」(p362)というもので、文学的視点と社会学的視点を結合して考えるところに特徴があります。

 ただ、著者は英文学者ですが、政治や経済までも含んだ歴史的な視点の方に重きがかかっていて、文学はその彩りといっても差し支えないぐらいになっています。同じくイメージを軸に思想を展開したバシュラールがひたすらイメージに沈潜して哲学的な思索を繰り広げたのとは対照的に、文学作品を日記などと同様の歴史のテキストとして見ていて、当時の人びとの意識の奥底にあるものを探るための断片的素材とみなしているようです。歴史学の側から見ればとても新鮮なアプローチだと思いますが。


 『庭のイングランド』にはいくつかの基本思想のようなものが見られます。主要なのは、人工対自然と退行志向対開拓志向の二つの対立する軸だと思います。

 そもそも庭というものは、人工と自然の中間にあるものなので、人工対自然の力学は外形的に庭の形態を左右するものとなるわけです。自然の力が強くなって、大陸型の整形庭園から英国式自然風庭園への大きな流れが生まれ、文学や絵画のロマン主義の荒涼とした自然崇拝につながって行きますが、逆に自然が過多になると庭としての自らの存在を否定することになるというディレンマが生じます。

 もう一つの退行型対開拓型の視点では、庭というものが古代より囲い込まれた常春の国であり、自足した幸せな好ましい空間としてある一方、そういった悦楽の園に我慢ならなかった人種がいたという構図を示します。それは清教徒たちで、造園の面では、接ぎ木や肥料による新品種の改良で、実利的な庭をめざします。その対立の図式は、王党派・国教会派対清教徒という政治的宗教的な対立や、十七世紀英国における小英国主義と拡張主義との対立にまで敷衍して描かれています。

 他にも、庭と地母神の結びつき、宇宙−地球−イングランド−田舎屋敷−大広間−暖炉という静的同心円を描くプトレマイオス的な秩序、庭の主要素と四大元素のつながり、黄金時代の自発的豊饒性(じっとしていても果物が落ちてきたり魚が飛び込んできたりする)など、いくつかの面白いテーマがありましたが、後の引用で少しカバーすることにします。


 『森のイングランド』は、もう少しリラックスした読み物となっていますが、手法はやはり同じで、森をめぐる中世から現代までの文学を取り上げて、イングランドの森の変遷をたどっています。ここでも自然対文明、支配階級対被支配階級、王権対反王権(清教徒)の対立の構図がでてきます。


 大雑把に単純化すると、
①イギリス人にとっての森は日本人にとっての山と同様、原始・自然を代表するもので、人間の祖型的感情につながっていること。
②もともと支配階級が所有していた森に、被支配階級がいろんな形ではいり込んできた。ロビン・フッド伝説がそれを象徴している。
③自然祝祭的な森のあり方に対立したのが清教徒で、森林の破壊を行なった。
④また森は、造船や建築の材料、木炭のために伐採され、また牧草地への転換により圧迫されたが、植林という知恵で森を維持した。
⑤木の種類としては、生育が早く管理の容易な針葉樹の経済性が重視されるようになり、落葉広葉樹は庭園美のための存在となった。
⑥石炭が使用されるようになって、木は必要なくなり、森を維持しようということもなくなってくる。
⑦森に対する崇拝は現代では環境問題として形を変えて続いている。文明が勝りすぎた今日、文明を制御することが必要。
といったところでしょうか。間違って解釈しているかも知れません。


 ロビン・フッド伝説で、日本の鼠小僧を思い出しました。そういえばむかしはやくざ映画などアウトローに憧れたものですが、いまの日本では、コンプライアンスとかの風潮で、アウトローを歓迎するムードが少なくなってきたのは残念です。

                                   
 つまらぬ感想はやめて、以下面白かった文章を引用しておきます。

庭の情景、とくにそのなかの水の面が、実体と知覚、あるいは人間の認識の問題との、からみ合いを見せてくれるだろう。/p21

造園は・・・絵画や彫刻と違う点がいくつかある。まずその素材が自然そのものである点。第二に、とくに模倣すべき原型を持たないという点。/p21

絵画史のうえでは、たしかに風景画のジャンルが確立された時代である。科学技術史の側面からいえば、望遠鏡をはじめとする各種の新しい光学器械の導入によって、遠くや近くを「見る」という行為が、新たな自意識を呼び起こした。/p114

なだらかに盛り上がったやさしい姿の丘を愛して、峨々たる山巓を憎み恐れる気持は、わが国古代人の香久山、三笠山に対する愛着にも見られるごとく、もっと祖型的なものであった/p131

地形誌の四大構成要素は、作品の内部でひそかに宇宙の四大に照応しているように感じられる。・・・花園では空気、牧場では火、森では土、川では水である。/p132

ヨーロッパ西海岸一帯の住民たちにとって、西方の国を空想する行為は、彼等の日常体験とも結びついていたようだ。・・・見なれぬ破損したカヌーとか、ながく波間をただよっていたらしい椰子の実とかが、彼等の海岸に流れ着くことがあったからである。/p209

庭園についていえることは、芸術のあらゆるジャンルに当てはまる。たとえば詩は、あらゆる瞬間に、散文に崩れ落ちようとする、その危機的構造のうちに自己のインテグリティを保持するのだから。/p285

美の一つ一つがどこにも覗けるのはよくない。/なにしろこつの半分は上手に隠すことなのだから。(ポープ)/p308

名だたるフランス式整形庭園は、かなりな速度で自然への回帰を急ぎつつあったと考えられる。しかもそれは、所有者たちの意志に反してであった。/p350

以上『庭のイングランド

動物にとっても人間にとっても、追う立場でも追われる立場でも、もっとも快い状況とは、わが身を森のはずれの茂みに隠しておいて、目の前にひろがる明るい草原を見渡しているという状況にほかならない。それは逃避と眺望を同時的に達成させてくれる、唯一の地点なのだ/p13

文明史を進歩と反動という単純な力学で割り切れば、文学者、なかでも詩人はしばしば反動的であり、さらにその反動性は〈牧歌詩〉においてもっともあからさまに表われる。/p45

王(法の源泉)と代官(法の執行者)を区別しようとする。・・・法は悪くない、それを苛酷に執行する代官が悪いのだ・・・わが国の水戸黄門伝説は、この幻想を念入りに繰り返しプロットに構築する。・・・王の変装というテーマでも、ロビン・フッドの伝承と黄門伝説は共通している。/p82

広葉樹・・・樹相においても色彩の変化においても、〈多様性〉の原理をより十分に満足させる・・・オークこそもっとも非整形すなわち不規則に幹や枝をのばす木であり・・・あらゆる木のなかでもっとも〈ピクチャレスク〉な姿を呈するのだ。/p234

ゴシック聖堂の・・・丸天井(ヴォールト)の扇型網目状の構造を見た人は、それがヨーロッパの広葉樹林、とりわけブナ林の梢を見上げたときの印象と、ぴったり重なることに驚嘆するであろう。・・・森は教会であり、小鳥たちは聖歌隊であるという、暗喩の構造が働いているのである。/p239

以上『森のイングランド
ちと引用が多すぎましたか。