:シャルル・メリヨンに関する二冊

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松井好夫『メリヨン・パリの狂気と幻覚』(煥乎堂 1980年)
ピエール・ジャン・ジューヴ道躰章弘訳『ボードレールの墓』(せりか書房 1976年)

                                   
 メリヨンについて書かれた文章が含まれている本を二冊読みました。双方とも、メリヨン以外について論じた文章も収められていて、松井好夫の本では映画論、ジューヴの本では、ボードレールドラクロワクールベ

 結局、メリヨンの場合は作品も少なく、残された資料もあまりないみたいで、両書には同じような話が出てきました。そもそも松井好夫の本はジューヴの論を紹介している章があるなど、ジューヴのメリヨン論に拠っている部分が多いようです。両書ともあまり銅版画の技法については書かれていないのが不満です。


 メリヨン版画の最大の特徴は、ジューヴが「第一に認められるのはこの厳正さと客観性」(p168)と指摘しているように、細部の表現がきわだつ線刻の峻厳さにあると思います。尋常ならざる気迫を感じてしまいますが、それは「狂気が生命を与え」(p167)たもののようです。ジューヴはその狂気を作品の着想の端緒となるものとして、ネルヴァルの狂気と合わせて論じています。


 メリヨンの狂気の様相のいくつかを紹介しますと、
①メリヨンが突然ボードレールを訪ねてきて、エドガー・ポーとかいう男の小説を読んだことがあるかと問い、ボードレールがポーの小説なら故あって誰よりもよく知っていると答えると、ひどく語気を強めて、ポーは「モルグ街の殺人」で密かに私の不幸を描いているのだと主張した(『ボードレールの墓』p197)。
②自分で作った『掟』に従って、夜は服もぬがず、ひもでゆわえた二枚の板にはさまれ、壁を背にして立ったまま眠ったこと(p164)。
③死体だか宝物だかを発掘するために、人に頼んで庭を掘り起こしてもらったりした(p157)。
④モンパルナスの墓地で、墓石の間から通行人に向ってパリを立ち去れと勧告したりした(p166)。
⑤自作の銅版画を多いものでは10ヶ所以上も修正したあげく(p170)、最後には銅版をすべて破壊してしまう(p163)。
⑥自分がクリストになったものと思い込んで、一切の食物を拒んだ後、シャラントン療養所で死ぬ(p166)。


 これらには被害妄想と、偏執狂的理想主義が感じられますが、作品にもそれが細かく反映していることが、ジューヴの本では具体的に論証されています。狂気が顕著にきざした作品として挙げられていたのは、大革命の血腥さを感じさせる「死体公示所」、屋根の上に裸の男の斬首の光景が描かれている「エコル=ド=メドゥスィヌ街の小塔」、画面にL・NやC・Mの記号のある「アンリ四世校」、巨大な魚の姿をした化物、ポリネシアの小船、戦車や大砲など、空から武装した怪物どもが降って来る「海軍省」。

 ジューヴの本では新しく教えられたことがありました。メリヨンが色盲だったということ(それで銅版の世界に入ったんですね)(p195)、それから自らの銅版画を注釈する詩を書いていること(p152)です。ジューヴはその詩を拙いと一笑に付していますが、なかなか怪奇美のある面白い詩だと思いました。「清らかな魂よ呻くがよい、/だが、この建物の正面に/私は腹黒い悪鬼どもを描いたのだ。/・・・/悪の兆を告げる不吉な鳥が、/我等の素晴らしい街を選び/そこに棲み着いてしまったのだ/・・・/この鳥を街から追い払うには/街そのものを取り壊さねばなるまい。」(p153)。


 ジューヴの指摘で印象に残ったのは次の二つの文章。微妙な表現なのでそのまま引用します。
メリヨンはいわば顛倒したランボーだと見做すことができる。・・・メリヨンはまず遁走するところから始める。即ち、オセアニアへの旅がそれである。が、何ものかの手によって連れ戻される。以来、メリヨンは破局の幻影の中で創造するのである(p192)。
かくて、人間の孤独から《亡び去ろうとする》「街」の孤独へ、―人間本来の苦悩から「街」破局へと場面は変る。人間と街とは相関関係にある。・・・語られているのは要するにパリの滅亡と狂気である(p194)


 ジューヴの本では、他に、ボードレールは悪魔的な仮面をつけなければ敬虔になれなかったと指摘しつつ大絶賛した「ボードレールの墓」が力作だと思います。が彼の文章は、こちらの頭が脳軟化症状態になっていることもあり、書いてあることがなかなか頭に入ってきません。なぜなのか考えてみて、それは、根拠が示されないまま、著者が思い感じたことを一方的に格言めいた断言口調で綴っているからだと思いました。こちらももっと時間をかけて何度も読めば少しは脈絡が見えてくるのかもしれませんが、年寄りにはそんな時間はない。もう少し読者のことを考えて文章を綴って欲しいものです(同じ文学者でもピラネージを語るユルスナールは理路整然としていた)。


 『メリヨン・パリの狂気と幻覚』のほうは、ジューヴの本を読んだあとでは新鮮な部分が少なく、むしろ面白かったのは映画論でした。まず映画は演劇や絵画や小説が創造することのできない映画だけの世界を創るべきだという基本的な考えがあり、そこから次のような主張を導いています。
①光と影の諧調の微妙なニュアンスが映画の魅力で、そこには静かなやわらかい情緒、詩のような感覚、美しい夢幻の境地がある。
②映画の要素として重要な役割を演ずるのはリズム、テンポー、スピードなど運動で、カメラ技術、背景の移動性、また俳優の動作が形づくる。例えば、映画における近代的な女性の美は、蠱惑的な鋭い表情美と力動的な歩行美とにある。
③映画のリズムには、内的リズムと外的リズムの二種類あって、前者においては演技、舞台装置、照明および映画的主題など演出の領域に属するもの、後者はフィルムそれ自身のリズムで、編集、カッティング等の操作によって生ずるものである。
④場面転換は映画独自のもので、「溶明」、「溶暗」、「絞り開き」、「絞り閉じ」、「切り返し」、「瞬間場面」、「大写し」、「二重写し」、「近写」等の技巧をいうのである。


 私も壮年時には、だらだらとした会話や心理描写は演劇や小説にまかせておけ、映画だけしか作れないのは特撮やトリック、活劇の世界だ!と考えて、そうしたSFや冒険ものばかりを見ていましたが、最近の映画は、この前「トゥモローランド」を見ましたが、音量も派手だし画面も目まぐるしすぎて年寄りには疲れます。たしかに今は「光と影の諧調の静かなやわらかい情緒が流れる美しい夢幻の境地」に憧れます。

 ドイツ表現主義映画に一章をさいて、切迫した主観の叫びの聞える表現形式、象徴的装飾的な装置と衣装、異様な風貌を漂わす俳優の動きなど特徴をあげて絶賛しています。「カリガリ博士」のセットは、はじめアルフレート・クビーンにデザインを依頼するつもりだったとのこと、それはぜひ見てみたかったものです。