
田辺保『ブルターニュへの旅―フランス文化の基層を求めて』(朝日新聞社 1992年)
田辺保の霊的フランス旅の続きです。全体は七章からなり、第一章のフランス中部のエピヌイユ・ル・フルーリエルと、第二章のブルターニュの入口ヴァンデ地方を除いて、残りの章は、ブルターニュ半島の名跡を巡る旅となっています。3週間ぐらい前に読み終えた本なので、あまり覚えていませんが、少しだけ書いてみます。
今回の本の特徴は、これまでと少しトーンが異なっていて、文学寄りの話が多く、宗教色が薄まっていることです。第一章は、アラン・フルニエの『モーヌの大将』の舞台となった村が取り上げられ、第二章では、ヴァンデの悲劇を語りながら、ジュリアン・グラックの『アルゴールの城』に多くの頁を割き、第五章以降は、アーサー王物語や「トリスタンとイゾルデ」などの中世騎士物語、沈める都イスの伝説などを中心テーマとしています。
これまでの書物でもそうでしたが、書斎にこもっているはずのフランス文学者なのに、頻繁に現地を訪れ、自分の脚で歩き回って確かめていることが驚きです。ブルターニュは交通の便があまり良くないのにもかかわらず。そのおかげで読者も旅をしているような気分になれます。
第一章では、『モーヌの大将』の主人公モーヌがさまよいこみ、「ひとたび到達したものの、たちまち霧に包まれて、おぼろに揺らぐ影と化し、彼方へと遠ざかって行ってしまった」(p25)楽園の追憶と、著者が作品の舞台となった村を訪れ、現場を見ることで浮かび上がる小説の数々の思い出が、呼応するかのように響き合って、夢幻的な雰囲気を醸し出しています。
『モーヌの大将』と同じく、楽園への憧憬をテーマとした作品として、ネルヴァル「シルヴィー」、ジュリアン・グリーンの回想、アンリ・ボスコ『少年と川』、ルイ・ペルゴー『ボタン戦争』、マリー・ノエルの回想記『夜明け』、さらにはペーター・メンデルスゾーンの『哀愁のアルカーディア』、映画では、ジャン・ルー・ユベール監督の『フランスの思い出』、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『わが青春のマリアンヌ』(『哀愁のアルカーディア』の映画化)を挙げていました。
第二章では、『アルゴールの城』について、ブルターニュにあると設定されているアルゴールの城と、モーヌがさまよいこんだ城との精神空間上の位相が同じところにあると指摘し、また3人しかいない登場人物のうち、金髪の美女を伴って城を訪れてきた友人エルミニアンは、城の持ち主アルベールの鏡に映したようなドッペルゲンガー的存在であると論じています。また、この作品は、ブルターニュの森を舞台とした「聖杯伝説」で無限に繰り返されたテーマの流れをくむものと位置付けています。
西の海上に美しく富み栄えていたグラドロン王国、すなわち沈める都イスの伝説が、やはり興味深く読めました。錨を引き上げようとしても上がらないので、漁師が鎖を伝って水に潜ってみると、錨は教会の窓に引っかかっており、教会の中は信徒たちで溢れていて、司祭がミサの応誦をしてくれる子どもがいないのを嘆いていた、という海中の描写も幻想的ですが、そのとき、漁師がその役目をすると答えていたら、町は直ちに海の底から浮上したはずだったという設定は、ペルスヴァルの物語の「聖杯の行列を目撃したのに、何かと問わなかったために、傷ついた漁夫王を救えなかった」というエピソードと類似しているというのが面白かった。
パリ(Paris)という名は、ブルトン人に言わせると、「イス(Is)に匹敵する(Par)」というところから生まれたということです。そして、パリが水に呑み込まれたとき、イスの町が再び姿を現わすというのが、ブルトン人の願いの言葉だそうです。そこには、「地方」が「中央」に、「異端」が「正統」に、「敗北者」が「勝利者」に、「夜」が「昼」に対して、抑えきれぬ強い情念があるといいます。ユーラシア大陸の西端に押しつめられたケルトが、本質的に「落日の民」であり、「ケルトは日の沈む西の海の彼方の異界に思いを馳せながら、古代のある時点から19世紀までずっと落日の境涯にあった」という鶴岡真弓の言葉を引用していました。
中世騎士物語や聖杯物語については、次に読んだ『ケルトの森・ブロセリアンド』に詳しいので、次回取り上げることにします。