
田辺保『フランス 巡礼の旅』(朝日新聞社 2000年)
田辺保の霊的フランスをめぐる著作の続きです。サンティヤゴ・デ・コンポステーラ巡礼の順路の教会や名所を中心に、フランスにおける巡礼について書かれています。信仰の面から見たロマネスク教会案内といったところでしょうか。サン・ジャック塔、シャルトル大聖堂、ブルターニュ巡礼、ロカマドール、ル・ピュイ大聖堂、コンクのサント・フォワ教会、ルルドが紹介されています。ただ人名、地名など固有名詞がオンパレードで、読みにくい。
全体を通して、共通の話題がいくつかありました。まず、巡礼そのものの意義や歴史については、
①前途にどんな危険が待ち受けているか、怖れを多少なりとも抱きながら、未だ見ぬものへの期待とともに出かけるのが、旅(巡礼)の楽しみであった。「からだは、どんな修業においてもかかわりを持つのである」(シモーヌ・ヴェイユ)というように、肉体的な疲労が身体に食い込んでくるとき、何かが見えてくるのだ。
②パリのコンポステーラ巡礼の起点は、その名のとおりサン=ジャック(聖ヤコブ)塔であった。パリを起点とするもう一つの巡礼が、シャルトル巡礼で、9世紀末にはもう始められているが、現代におけるシャルトル巡礼の慣習は、1912年に、シャルル・ペギーが当時住んでいたパリ郊外から、3日かけて90キロを歩き通したのが始まり。
巡礼に絡んで、土地の霊気のようなものに触れる言葉がありました。
①山は、水平に蠢いて生きるべく定められた人間にとって、天上から打ち込まれてきた垂直の矢であり、畏怖と讃仰を誘われずにすまない。そこから山岳宗教が生まれた。ロカマドールは、モン=サン=ミシェルと並び、霊的フランスが的確に見事な直覚で選択した、壮美、怪異、崇高の聖なる場所である。
②ル・ピュイ盆地の土地の霊(ゲニウス・ロキ)は、伝説を生み出さずにはおられない、何かしら黒く濃い「根源的なもの」をまつわりつかせている。また、ル・ピュイからコンクへの途上のオーブラック修道院の「銀色の結晶片岩の屋根をいただき、青灰色の花崗岩と黒褐色の玄武岩との組合せの全体が浮かび上がってくる」姿は、黙示録の風景と言っても過言ではない。
黒い聖母の話題がけっこう目につきました。
①シャルトル大聖堂袖廊南側のバラ窓の黒い聖母、実際は濃い茶色のシャルトル地下聖堂の「黒い聖母像」、ロカマドールの砕けてしまいそうなほど摩滅した「黒い聖母」、革命で燃やされた古い黒マリア像の代わりに新しく置かれたル・ピュイの「黒い聖母」、ほかにもオーヴェルニュ地方には、クレルモン、モーリヤック、メイマック、モロンビーズなどに黒い聖母子像があるという。
②その黒色の理由はいろいろあり、一つは材質変化で、蝋燭の煙によって黒ずんだとか、木材が老朽化して変色したとか、ステンドグラスの場合は肌色を出すのに使われた顔料のマンガン酸化物が堂内の温度上昇の影響で黒く変色したとか。一方、はじめから黒いものとして作られたという理由としては、旧約聖書「雅歌」のなかの「私は黒いけれども愛らしい」という言葉を模したとか、異教の豊饒と繁殖の女神が黒く塗られることからの影響とか、エジプトから、イシスとホルスの像を、聖母マリアとキリストと間違えて持ち帰ったというのもある。
③著者は、それらの説を退け、わが身から黒い汗を滴らせて苦しむ母のイメージとつながると見るほうが、古くからの民衆の心情とも、私たち自身の深層に宿る苦悩の神秘信仰とも響き合うとして、異教の女神が黒く塗られたのも、古代人がそうした神秘的な啓示を受けたせいではないかと書いている。
霊的フランスの地には、先住者ケルト人の異教の名残があるという指摘もその通りだと思います。
①シャルトルはかつて、ケルト人たちのドリュイド僧が丘の上に祭壇を設けた地であった。モン=サン=ミシェルの近くに、モン=ドルがあり、この岩山にはローマ時代、ユピテルを祀る神殿があり、同じ場所にのちに、サン=ミシェル礼拝堂が建てられた。またモン=サン=ミシェルの島も、昔はモン=トンブと呼ばれ、ケルト人たちにとっては死者たちの島であった。
②ブルターニュの七聖人にささげられた各地の教会をめぐるのがブルターニュ巡礼(トロ・ブレイス)であるが、キリスト教がブルターニュにもたらされる以前から、この地で民衆の尊崇を集めていた異教の七種類の神々が、七聖人の発祥をなすと言われている。「三つの泉のノートル=ダム」の三つの泉のうち、二つは古いガリア時代のケルト人たちの女神の座の名残である。セーヌ川の名の起こりとなったのもケルトの女神セクアナ。
③ブルターニュのキリスト教が古代の伝統に継ぎ木されたものであるように、霊的フランスには、古い土俗の信仰を保ち続ける風土があり、「水源」と直結している底深い水流をどこかに秘め隠していて、いつの時代にも根底から甦生させている。
④11世紀~13世紀にマリア信仰が盛んになったが、その陰には、異教の諸伝統、母神信仰の影響も指摘されている。シモーヌ・ヴェイユも次のように書いている。「処女聖マリアが母であることは、万物の母で永遠に無垢のままでいる霊的存在についてのプラトンの言葉と神秘的なつながりがあります。古代宗教の中の女神で母親であるものは、デメーテルもイシスも、聖母マリアの象徴だったのです」(p214)。
田辺保は、民衆の信仰の素朴な熱意による奇跡創作の稚拙さを次のように明るみに出しています。
①モン=サン=ミシェル修道院由来では、司教の夢の中に聖ミカエルが現われ、島に聖堂を建てるように命じられ、頭に指を押し当てられたというが、その証拠として宝物庫に残されている司教の指の痕のある頭蓋骨は、実は新石器時代のものである。またコンクの修道院が、「聖なる盗み」と称して、120㎞離れたアジャンの聖女フォワの聖遺物を盗み出したりしたように、中世では各教会が争って聖遺物の発見(もしくは創作)に走ったのである。
しかし一方で、著者は、素朴で一途な信仰の証拠固めの熱心さに思わず微笑を誘われずにいられないと、愛情と敬意を示し、次のように書いています。
②聖遺物とされるものの中には、かなりいかがわしい偽物や急造の品も含まれていたようであるが、殉教した聖人の体は、人間として同じ物質でできているにしても、特別な霊力がこもっているはずと受けとめた民衆の心性の素朴な直観力には、共感すべきだろう。この種の物語をすぐさま軽々に打ち棄ててしまう、近代の浅はかさに組することもすまい。
③ルルドに聖母が現われたというようなご出現の話は、19世紀半ばから20世紀にかけて、フランスがどの他の国にまして多い。1928年から70年にかけて27回を数えるという。著者は、フランスが聖母から特別な愛情を注がれてきたという事実は何を意味しているかと問いかけている。→私はむしろなぜイエスが出現しなかったのかと問いたい。
この本で、いちばんイメージ豊かで、宗教的哲学的だと感じた文章は、「蝋燭は、悲痛に沈む母親の涙を流して、ひたすらに泣く。おそらく蝋燭自体が、蝋燭を燃やさずにいられぬ苦しみを、正確に映し出す姿なのだろう・・・すべてのものが、息を引き取る前には、いよいよ激しく身をよじらせ、聖母の前に、最後の炎の叫びをあげる」(p269)というユイスマンス『ルルドの群衆』からの引用。著者は、それを蝋燭の神秘学、蝋燭のシンボル理論と呼び、本質を突いたものと評している。
その他、各地の個々の話題としては、サン・ジャック塔のすぐ近くに、ニコラ・フラメルの家があり、夫妻とも聖ヤコブに深い信心をしていて、財産をパリの幾十もの教会、施療院に寄付したということ。モン=サン=ミシェルは、大革命の前後には牢獄として使われ、社会主義者バルベス、ブランキ、ラスパイユらが入っていたということ。十字軍の集結地となっていたル・ピュイの大聖堂の南扉に、アラビア語でアラーの神の栄光を讃えるコーランの一節が彫られているとのこと(→なぜそんなものがあったのか)。サント・フォワの柱頭彫刻は会堂外部にあるものも含めると総計300にも達する、など。