
遠山信男『詩の暗誦について』(日本図書刊行会 1998年)
以前から、詩の暗誦が気になっていました。私自身それほど記憶力がいいほうではなく、一行だけ覚えている詩はあっても、数行にわたって暗誦できる詩は一つもありませんし、歌詞ですらほとんど覚えていません。昔の歌をたくさん覚えていて人間ジュークボックスを自称していた友人が居たり、ネルヴァルの『オーレリア』のフランス語原文を滔々と引用する先生や、泉鏡花の『春昼』の一節をよどみなく語る女性に出会ったことがあり、羨ましく思っていました。
自分にはなかなかできないからかもしれませんが、詩の暗誦をする人には、古代、文字のない時代に暗誦によって語り伝えていたときの語り部が発する一種のオーラのようなものがまとわりついているように感じます。言葉が一種の音楽となって押し寄せ、場に魔術的な力が立ちこめるかのように思えます。
著者は、戦時中、暗号電報の任務で、暗号書を定期的に丸暗記するという過酷な環境にあったことが下地にあり、戦後、機械工となって単純作業に従事しながら、詩の暗誦を試みるようになったと言います。著者にとって、詩の暗誦が、味気ない重労働のなかで、心のオアシスのような生きがいになっていたのがしみじみと理解できました。それをもっとも象徴する言葉が、「一篇の好ましい詩を暗記し、暗誦するということは、一本の樹木を意識の原野に植樹し、繁茂させるということだ」(p22)ではないでしょうか。
以下、著者の論旨に沿って、私なりに解釈して理解した事柄を紹介しておきます。まず、詩の暗誦の特性については、いくつか挙げられていました。
①黙読の場合は、詩を文字をとおして読むので、視覚性が優先され、空間的であると言えるが、暗誦の場合は、詩句の音の場に自己を委ね、時間的な流れに乗って作品を味わうことができる。
②詩は時間的な作品であるが、暗記の過程で、またくり返し暗誦することによって、反復的な含味に堪えうる静止性をもった彫刻的な像となる。そしてその暗誦の都度、愉楽の一瞬が訪れる。
③詩の暗誦は場所をかまわずできるので、詩と日常の場という異次元の世界が交叉し交感することになる。こうした芸術は暗誦のみである。歩きながらの暗誦では、歩行のリズムと詩のリズムが親和的に重なりあい、あるいは差異を発生させ、面白さが生まれる。
④黙読と暗誦は、音楽家が譜面を見ながら演奏する場合と、暗譜で演奏する場合と、構造的に同じではないか。暗誦には、暗譜演奏と同じ緊張感がある。
特性とも重複し絡みますが、詩の暗誦がもたらす美点が数多く上げられていました。
①いつでもどこでも詩を呼び出し、詩を現前させることができる。声を出して暗誦するのでないかぎり、人混みの中であろうと自由にでき、他人に迷惑をかけることがない。
②作品を生きること、内的な生きた世界を手に入れることができる。優れた詩であるほど、その深さ魅力を味わうことができる。
③暗記の過程そのものに愉しさがある。
④暗誦には入眠への誘引力がある。とくに『百人一首』は31文字のもつ音律には催眠薬効果がある。
具体的な詩の暗誦の手順についても多く語っています。
①詩の暗誦においては、いわゆる暗記術的便法はないし、必要としない。暗誦の反復のなかで生動する消息をつかみとることに詩の暗誦の生命がかかっているからである。
②暗誦には、反復の持続、たえざる練習が必要である。コマ切れのあらゆる時間をとらえて暗誦する。それは暗誦しながら眠るというところまでゆきつく。
③忘れることを必要条件としながら、一寸刻みに漸進してゆくこと。一行の詩句を覚えたら、一行の詩句に習熟してから次の一行に進む。二行覚えたら二行の暗誦に習熟してから三行に進む。覚えようとする詩篇はある程度多い方がよい。
④詩句と暗記、忘却の三つの関係は、男女間の三角関係と言える。詩句を忘却するのは、忘却に詩句が奪われていることであり、忘却はライバルなのである。
⑤詩句の暗記の敵は、雑念、とりとめのない想念である。それといかに折り合いをつけるかが重要である。
著者がこれまで暗誦してきた詩の引用がちりばめられていて、何度読んでも心を打つ懐かしい詩もたくさんあり、また初めて読む詩でいいものにも出会えました(出てきた順)。
吉田一穂「咒 無始被境埋」「岩の上」、大手拓次「香爐の秋」、宮沢賢治「永訣の朝」、ランボー小林秀雄訳「酩酊船」、ボードレール永井荷風訳「死のよろこび」、リルケ手塚富雄訳「ドヴィノ悲歌 第一の悲歌」、北原白秋「邪宗門秘曲」、萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」、谷川雁「商人」、鮎川信夫「死んだ男」、日原正彦「一本の木」、嵯峨信之「自然の総目録」、関根隆「神話の娘」、水野るり子「影の鳥」。
私も何か暗誦できるように挑戦したい気になりました。とりあえず母親の13回忌に向けて、「般若心経」でも暗記してみますかな。