
アンリ・メショニック竹内信夫訳『詩学批判―詩の認識のために』(未来社 1982年)
先月、奈良日仏協会の会合で、フランス詩についての興味深いお話を伺ったとき、講師の方がアンリ・メショニックを研究していて、リズムの理論に惹かれたと発言されていたので、たまたま所持していたのを読んでみました。が、とんでもなく難しく、ほとんど頭に入りませんでした。前回読んだジャン・ポーランも分かりにくかったのですが、また別種の難解さです。ポーランの作は、まだ自分の言葉で考え抜いた過程が披露されていたので、何とかついて行けましたが、この本は、ヤコブソン、ソシュール、バイイ、フォナジーなど、先人たちの理論が前提となって、それらに言及しながら持論を展開しているので、それを知らないと、ちんぷんかんぷん。
分かりにくい原因の一つは、批判すべき他者の論述を引用するのが多くまた長すぎて、一体著者の主張がどれか埋没して分からなくなっている点です。自分の主張だけを並べればいいのに、批判に熱中し過ぎ。どうやら詩への構造主義的、言語学的な接近の仕方に対して攻撃しているらしいのですが、どうして他者の理論に対して、これほど熱心に批判を展開するのかよく分かりません。著者は、個々の作品から離れた抽象的な議論を嫌っていますが、まさにその抽象的な議論に陥ってると言わざるを得ません。
ただし、詩のリズムについて書かれた「詩の空間」の章だけは、具体例を示しながら、かつ他の議論をあまり引用することなく展開しているので、非常にわかりやすい。リズムの点から詩の意味を浮かび上がらせるような独自の説明が面白く、また今後詩を読んでいく際のためになります。まず、たくさん出てきた例のなかから4つ紹介しておきます。
①ネルヴァル『幻想詩篇』の有名な詩句、「Je suis le Ténébreux,―le Veuf―l’Inconsolé.我は幽き者、独り身の者、慰め無き者」は、真中に頂点をもち、ふたつの内部切れをもって、「le Veuf独り身の者」を孤立させており、孤独の彫塑的暗示となっていること。
②アポリネールの「La Chanson du Mal-Aimé愛に恵まれぬ者の歌」やその他の詩篇で、最終行の脚韻が第一行目の脚韻を繰り返すababaの形は、愛の終りを歌う自己自身への懐旧的回帰の形態として典型的なアポリネール詩節の形となっていること。
③同じくアポリネール『アルコール』の一篇「ぶどう月」では、「ivre酔っぱらった」が「vigneぶどう畑」を、「ville町」が「villes町々」を引き寄せ、この二つのキーワード「ville」と「ivre」は詩篇全体のつなぎ目となり、最後の詩句「Je suis ivre d’avoir bu tout l’univers世界をすっかり飲みほして私は酔う」では、「ivre-univers」の遠いこだまとなって終わっていること。
④ボードレール『悪の華』の「秋のうた」の「J’aime de vos yeux la lumière verdâtre」という詩句においては、動詞「aime愛する」は、好きな対象「vos yeuxお前の眼」と統辞上直接に触れ合っており、「la lumière verdâtre碧がかった光」に先行するその「vos yeuxお前の眼」からその光は語の順序に従って放射している。つまり語順の形そのものが意味となっている。この詩句の中に〔j〕の音は二つ「yeux」と「lumière」の中に見出されるが、「yeux」の中に、前の行にある〔j〕音を含む「mystérieux神秘的」の思い出が色を映すことになる。
次に、リズムに関して次のような議論が目を引きました。
①リズムが詩の中心にあるということ:リズムがまず第一に詩句を定義するものであり、長短のリズムは詩的伝達、すなわち詩の「書くこと」そのものの本性に起因している。詩の意識とは、アレクサンドランから散文詩に至るまで、リズムの意識だということを理解しなければならない。定型の韻文よりもむしろ散文の方が詩的言語の働きをよりよく見せてくれる。ゆえに、音律の研究を「散文」においてさえも、進めなければならない。
②リズムと詩作品の意味との関係:リズムは意味連関の意識の外に働くものであり、真っ先に人をとらえるものであり、そういう意味ではリズムは天才のなすわざである。一方では、それぞれのリズムや音律は、作品のなかで反響しあうすべてのものと密接につながって新たな意味を生むものである。これこれの脚韻は抱擁韻であるとか、この詩句は短々長格であるとかの分類には意味がない。
③リズムのその他の性質:リズムは反‐記号的存在であり、言語学や記号学の埒外にあるものである。また音節はその長さと強度において異なり、時間的に等価ではないので、単純に3-3-3-3、2-4-2-4と並べることには何の意味もない
さて、この辺りからかなりあやしくなってきますが、ほとんど意味不明の文章の言葉の端々を拾って、よく分からないなりに、自分の納得できる形に置き換えてみました。これが著者の主張かどうか保証の限りではありません。まず、「訳者あとがき」に、「メショニックがこの批判によってめざすところは、詩という言語行為が本来もっている具体的全体性の回復である」(p204)と書かれていることに関連して、次のような議論がありました。
①著者は、2000年この方続いている記号形態と記号意味、すなわち表現形態と表現内容の異質たることを主張する二元論と対立している。言語と思想、ラングとパロール、言語行為とメタ言語行為、生きることと語ることはもともと同質のものであり、分離は不可能として、一元的批評言語を確立しようとしているのである。→このあたり先日読んだジャン・ポーランの主張と重なるように思う。
②言葉とは、それ自体において表現する素材ではなく、音と意味が一体となった形で、文の脈絡の中で他の言葉と連絡するものであり、すべての要素は相互に連関する関係の全体を作っているのである。そうした「形=意味」である限りでのリズムと音律として、テクストの研究に取り組まねばならない。
③作品の中のいくつかの語がつくり出す磁場の研究、韻律、リズム、比喩のつくり出す磁場の研究、そしてある作家における世界観、イマージュの母型の探究とが軌を一にして、はじめて詩学=詩の認識のあるべき姿に辿り着くのである。
著者の主張のもう一つの軸となっているのは、文学作品に対して批評する場合、抽象的な議論をして一般的な通念を導き出すのではなく、個々の作品を注視すべきというものです。
①その悪い例として、作品に我が身を合わせるのではなく、個々の作品を自分の理解に屈伏させようとしているとトドロフを批判している。文学を範型によって分析しようとするのは、現下に働きつつある文学から眼をそらすことであり、つねに作品から感性を通じて与えられるものによって賦活されていなければならないとし、概念が実体的に存在していると思い込んだときから、理論の倒錯が始まるとしている。
②ひとつのリズム、ひとつの音律、それに起因する文法、これらのものはひとつの作品のなかにおいてしか意味をもたず、象徴化の働き、比喩的形象の方向づけが行なわれるのも作品のなかにおいてだけである。作品から切り離されてしまえば、それらは虚構にすぎない。
③言語は情報領域のシステムであり、作品は価値領域のシステムにある。価値としての作品は、個人的メッセージの内的必然と、ある社会集団の既存の古びた価値の全体との闘いによってしか生命を保てない。
④プロップが民話の類型を抽出して議論を展開し、またレヴィ=ストロースも神話を構造的に解釈して成功できたのは、民話なり神話なりがもっている反復性の帰結にすぎない。なぜこの反復性が認められるかは、民話や神話が説明できることではない。
⑤ジャンルをそれぞれに固有の構成原理によって説明し、その枠組みを有効にしようとする試みは、対象とする領域があらかじめ考えられた領域であることによって、同義反復的様相を呈するようになる。例えば、同一の鋳型から作られたらしい鉄器を集めておいて、同一の鋳型を推論し、この推論された単一の鋳型を措定することによって、これらの鉄器の範疇的同一性を主張するようなものである。
その他、いくつかの論点がありました。
①書くことと読むことについて:書くことは読むことへ連続している。もっとも効果ある読みは、「書くこととしての読み」である。オリジナリティというものは、書くときに発生するのではなく、読むときに発生するのである。その意味で、文体というものも読むことで発生する。
②文体について:文体が作品をつくるのではなく、作品が文体をつくるのである。文体というのは、差異の概念の上に築かれている。
③言語の定量分析について:作品のなかの特徴的な語を数えることによって文学を語ろうとするのは、語がどう配置されているかという重大な点を見落としており、語が他の語全体との関係で成り立っていることを忘れている。
④隠喩と直喩について:直喩は三段論法であり分析的思考で、隠喩は幻視的直覚、情念、一瞬の啓示であると、長らく隠喩を称揚する伝統があった。ブルトンが直喩のもつ連辞論的独自性を強調したように、直喩は並置されることによって緊張を生み出すもので、直喩の比喩的転換が作品をつくり出すという見方が登場する一方、隠喩についても、隠喩はそれに先立って存在する何か別のものを表現したものでなく、創出的認識であるという考え方も生まれた。
⑤イメージについて:イメージという語が濫用され、かつ概念があいまいなまま使用されている。ある場合には、隠喩の同義語とみなされたりする。イメージは視覚的なものに傾き過ぎている。イメージは誰の眼にも見えるという点で、どんな意表をつく隠喩も、実際に眼に見えた物でしかなくなるのである。