:トーマス・オーウェン加藤尚宏訳『黒い玉』『青い蛇』

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トーマス・オーウェン加藤尚宏訳『黒い玉―14の不気味な物語』(東京創元社、1993)、『青い蛇―16の不気味な物語』(東京創元社1994)


 フランス語で『Cérémonial nocturne』を読んだ勢い(9/2報告)で、2冊ある翻訳本も読んでみました。本当は「読み直してみました」と書きたいところですが、この本も新刊で買ってからずっと積ん読の状態。


 詳しく原文と比較対照していませんが、フランス語で読んだ時に間違って理解していたところが多少あったので、ショックを受けました。


 またこんなことを書くと気障なと言われそうですが、日本語で読むせいか、味わいが少し乏しいように感じられました。日本語だと読むスピードが早くなりゆっくりと文章を味わうということが少なくなるせいかもしれません。フランス語ではフーフー言いながら2週間ほどかかったのに対し、この2冊は倍の分量なのに二日ほどで読み終えましたので。
 それとフランス語のほうが理解が行き届かない分神秘的な余韻が残るのかもしれません。


 謎めいた雰囲気の導入部がとても魅力的で、話の運び方が良くできています。また人間の心理をリアルに描いていて、読ませます。心理の動きをたくみにストーリーに反映させる手法はモーパッサンに近いような感じを受けました。最後にほとんど必ずと言っていいほどトリック的な落ちがあるのは、当初推理小説作家としてスタートしたオーウェンの出自が窺えます。


 オーウェンの語りのうまさの背景には、幼い頃の体験があるようです。オーウェン自身が序のなかで次のように書いています。

幼い頃、わたしは妹や弟、小さな友達にいちばん素晴らしい幻想話を話して聞かせたのだ。・・・彼らは納屋の片隅で、肩をくっつけ合ってうずくまり、ぼそぼそした声で私が話す即興話に聞き入ったものだった。/p6

話を語ることの快感をこのとき体得したわけです。さらに次のようにも書いています。

どうにも抑えられない心の高まりから、魂の重荷を下ろしてくれるようなことをいくらかなりと紙に書きつける気になれば、さまざまな悪行の責任を自分の描く人物たちに押しつけて、現実にはその罪を犯さないですむかもしれないということもある。・・・その中身が、秘められた心の奥から、他人の頭や心に入っていくということである。これこそがわたしの味わう喜びなのである。/p6

 とくにエロスの香りのする作品に佳作が多いように思いました。
印象深かった作品をピックアップすると、
「亡霊への憐れみ」
 メリメ「イールのヴィーナス」を思い出させる、古典的怪談の味わい。棺の中に黒い液体に浸かった死体があるというイメージが強烈。
「売り別荘」
 芝居を演じて売り家を見に来た客を驚かす手の込んだトリックが面白くまた意表をつく。
「バビロン博士の来訪」
 助かったと思ったのが新たな恐怖の原因となる、二段階の恐怖。心理を軸に語られる話の運びのうまさ。
「謎の情報提供者」
 噂が気になるというよくある話。心理を巧みに描写して話を盛り上げる。
「染み」
 ロールシャッハテストを題材にした怪奇譚。これも友人同士の心理関係を伏線として、ロールシャッハの図形をうまく使って、ありえない話を描いている。
「鼠のカヴァール」
 実の息子には乱暴狼藉を働かれている老いた機械人形師の人形への愛がひしひしと伝わる。
以上『黒い玉』

翡翠の心臓」
 女性が老いから若さへと変身した後一瞬に朽ち果てていく様相が魅力的に描かれる。エロスの香りがする一篇。中央アメリカの土像と現実の人間との照応も惹き付けられる。
「晩にはどこへ?」
 前半はマルセル・ブリヨンの彷徨譚を思わせる謎めいた雰囲気。後半は謎の男の悪魔的雰囲気に操られ出現する舞台上の悪夢が印象的。
「雌豚」
 濃霧で仕方なく片田舎の酒場に泊まることになる導入部、謎めいた賭けと祝祭的雰囲気のうちに淫靡な夢のような空間が出現し、それが翌日白昼の元では憑き物が落ちたように日常に戻っていることの落差。あれは一体夢だったのだろうかという幻と現実の間の浮遊感が素晴らしい。
「サンクト=ペテルブルグの貴婦人」
 謎の女に導かれて街を彷徨う導入部に続き、主人公が捉われていた悪夢が形を取り始める兆しの感覚が何とも言えずいやらしい。
以上『青い蛇』

 『青い蛇』の解説のなかで、「緑の中に罪と悪があるとするケルト的伝統を想起させる、緑色を否定的イメージとして捕らえるゴーチェの表現」と同じく、オーウェンの作品では緑色が効果的に使われていることを指摘しています(p219)が、そういえば、ジャン・ロランでも、『フォカス氏』で海緑色がひとつのモチーフになっていたし、『象牙と陶酔の王女たち』で、蛙など緑色が頻繁に出ていたことを思い出しました。