高橋邦太郎「『蜻蛉集』考」


高橋邦太郎「『蜻蛉集』考」(共立女子大学 1966年)


 ジュディット・ゴーチェの『蜻蛉集』にいち早く注目した高橋邦太郎の論考です。前回読んだ吉川順子『詩のジャポニスム』でもたびたび言及されていました。「共立女子大学紀要(第十二輯)」のいわゆる抜き刷り。詩人随筆家の岩佐東一郎宛の署名つき、といっても殴り書きのようなものですが。

 内容の大半は『蜻蛉集』本体の紹介に当てられており、あとは西園寺公望のパリ生活についてが中心で、ジュディットと山本芳翠については簡単な紹介に留められています。『蜻蛉集』については、本の体裁に始まり、献辞、序文にあたる『古今集』「仮名序」の仏訳と原文、そして本文の詩篇については、ジュディット訳と下訳となった西園寺訳、さらには日本語の元歌を調べられる限りで併記しており、当時としてはもっとも詳しい紹介であったと思われます。

 『古今集』「仮名序」について、著者は、「抜粋であり、抄訳であるが・・・真髄は美事に捉えてあって、歌論の基礎となり、和歌の本質を伝える点にいたっては、まことに美事な抄略を提供したと感ぜざるをえない」(p92)と書いていますが、読んでみると、私のフランス語の力がついたのかどうか、古い日本の言葉よりも、フランス語訳で読んだ方が心にすとんと落ちたのが驚き。また、短歌も短い言葉の中に盛り込まれている要素が多いので、フランス語訳の方が平明に感じます。

 西園寺の下訳は、原歌を素直に順序を違えず訳していて、分かりやすく、なかなかのものです。ジュディットの訳したのより西園寺の訳したものの方が素直で読みやすい。なぜかと考えるに、ジュディットは音韻を揃えるために無理をしていることと、西園寺が日本人の分かりやすいフランス語で訳しているからかもしれません。例えば、千里の短歌「栽し時花まちどをにありし菊/うつろふ秋にあはんとや見し」は、ジュディット訳では、「En semant moi-même, Revant son cœur entr’ouvert, Cette fleur que j’aime, Qui fane le chrysanthème?」、西園寺訳は「Quand j’ai semé cette plante, attendant la fleur avec impatience, est-ce que je songeais à l’hiver qui fane les chrysanthèmes」となっています。

 短歌のいくつかで、ローマ字書きにしたものがありました。それを見ると子音や母音の配置がよく分かり、細かな音韻の工夫が凝らされていることがよく分かりました。例えば、蝉丸の有名な短歌「これやこの行くもかへるも別れては/知るも知らぬも逢阪の関」は、「Koré ya Kono/ Youkou mo Kaérou mo/ Wakarété Wa/ Shirou mo Shiranou mo/ O Ossaka no seki」とフランス式に表記されており、一行目二行目ではKとY、三行目ではW、四行目ではS、五行目ではOが、音の基調になっていることや、母音の動きがよく分かります。これを考えると、短歌をローマ字併記、少なくともひらがな併記にするようにすれば、音韻の変化がよく分かるのではないでしょうか。

 いくつかの訳には、元歌の意味から離れてしまっているのがありました。例えば、俊成女の歌の西園寺下訳は、原歌を訳しきれていないと感じられますし、敦忠のジュディット訳は少し曲解されているようだし、伊勢のジュディット訳も歌の原意から離れてしまっています。

 あらためて、『蜻蛉集』に収められた短歌の中で、私の好みに合ったものは次の歌。
春の夜のやみはあやなし梅の花/色こそ見えねかやはかくるゝ(凡河内躬恒

花の色は霞にこめて見せずとも/香をだにぬすめ春の山風(良岑宗貞)

人はいさ心もしらずふるさとは/花ぞ昔の香に匂ひける(紀貫之

ながらへば又このごろやしのばれん憂しと見し世ぞ今は恋しき(藤原清輔朝臣

ながめつるけふは昔になりぬとも軒場の梅はわれをわするな(式子内親王

さびしさに宿を立ち出で眺むれば/いづこも同じ秋の夕暮(良暹法師)

忘れなむと思ふさへこそ思ふこと/かなはぬ身にはかなはざりけれ(大弐良基)

冬ながら空より花の散り来るは/雲のあなたは春にやあるらん(清原深養父

花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり(入道前太政大臣、藤原公経)


 最後に、蛇足ですが、ゴンクールの日記に描かれた日本人像は、フランス人が日本人をどう見ていたかが分かって、一瞬愕然としてしまいます。「瞳は・・・興奮しているのか、下に、上に、左右に絶えず動いているので、彼の視線が熱に浮かされているような、奇怪なものに見える・・・贓物を抜いた兎のような細い体が、痩躯が、欧羅巴人のズボンと、フロックコートの中で宙に浮いている。ざっと動物に人間の着物を着せた、曲芸団の動物といった矮小さである」(p85)→これはジュディットが『蜻蛉集』を愛をこめて献呈している光妙寺三郎の姿を描いたものと思われるとのこと。

 家隆の「富士の根の煙もなほぞ立昇る/上なきものは思なりけり」という歌があって、いつ頃の話かと思って調べると、13世紀初頭ぐらいの人なので、その頃は富士山はまだ煙を吐いていたようです。