:荒木亨の「詩・ことば・リズム」に関する本二冊

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荒木亨『ものの静寂と充実―詩・ことば・リズム』(朝日出版社 1974年)
荒木亨『木魂を失った世界のなかで―詩・ことば・リズム』(朝日出版社 1982年)

                                   
 詩の本を連続して読んでいますが、今回は詩のリズムを中心とした本を読んでみました。荒木亨はユグナン『荒れた海辺』の訳者としての印象が強く、50年近く前一人の友人が熱をこめてこの本のすばらしさを語るのを聞いた記憶があります(結局私は読みませんでしたが)。訳本のキューゲル『象徴詩と変化の手法』は24年前に読んだ記録が残っていますが、まったく覚えておりません。記録では◎がついております。

 この二冊の本は、ところどころまったく理解を寄せつけない部分があり、またある程度の基礎知識を前提として書かれているようで、読むのに難渋しました。それと賢い人にありがちな、断定的で高みから見下ろしたような言い方があちこちに散見されて、気分のいい読書にはなりませんでした。

 私の理解力がついて行けなかっただけの話かもしれません。問題としている部分はよく分かりましたので自分なりにあれこれ考えてみました。

 もっとも関心が湧いたのは、詩のリズムについての文章。著者は土居光知の考え方をもとに、二音節をひとつの単位(詩脚)として考え、奇数音節の語は二音節+一音節に分解し、二音節の語に助詞「てにをは」がつく場合は一音節の単位で附随させ、奇数音節の語に「てにをは」がつく場合は二音節の単位を形成するとしています。ですがどこにも二音節を基礎単位とする理由が明かされていません。なぜ二音節にこだわるのでしょうか。

 「なが・れて」というように四音を二分割に、三音の「テレビ」を「テレ・ビ‐」に、わざわざ分解する必要があるのでしょうか。二音節がずっと続くというのは行進しているようなリズムでまさに単調です。著者はテレビを「テレ・ビ‐」と二拍で考える理由として、早慶戦でのエール交換「わせ・だ‐」のリズムを例に持ち出していますが(『木魂を失った世界のなかで』p99)、まさに二拍は応援や行進のリズムであって、詩のリズムではないことを自ら証明しているようなものです。

 また土居光知に倣って、五音七音の句について、五音の後にだけ休符を考えていますが、これも何故だかわかりません。

 著者自らも、坂野信彦の次のような言葉「われわれが明らかにすべきことは、『どう読むべきか』ではなく『どう読まれているか』また『どう読まれてきたか』でなければならない(『木魂を失った世界のなかで』p134)」や、熊代信助の「文芸は最終的には感受の頂点で決着をつける他ない(同書p134)」という言葉を引用しているように、あくまでもわれわれが詩を読む時の感覚にもとづくものでなければならず、詩をより美しく読むための示唆となるものでなければなりません。私の拙い感覚をたよりに考えてみると、基礎の音節単位を考えるよりも、詩脚を自由に解き放ち、詩の一行の中でののびのびとした詩脚に目を向けた方がよいと思います。音を結束させるとするなら、やはり意味のまとまりで、二音、三音、四音、五音、六音ぐらいまでは単位として考えても差支えないのではないでしょうか。

 フランスの詩行で十二音綴詩(アレクサンドラン)の場合でも真ん中に6音程度の句切りを考えますが、これが自然だと思います。一口で発音できる音量というのは6音〜7音ぐらいまででしょう。その音のまとまりを詩脚という単位で考えると、一行にその詩脚がいくつ含まれるかが、詩のリズムを考えるうえで重要になるのではないでしょうか。

 この本でも取り上げられている例でいうと(『木魂を失った世界のなかで』p94)、自由詩ではなく短歌ですが、「死に近き/母に添寝の/しんしんと/遠田のかはづ/天に聞ゆる(斎藤茂吉)」を著者は、2・2・1・‐/2・1・2・2/2・2・1・‐/2・2・2・1/2・1・2・2として、各一行分を四脚律(四歩格)として捉えています。私は2・3/3・3・1/4・1//4・3/3・4と考えるのが自然だと思います。

 詩のリズムに関して、この本で新しく得ることができたのは、露伴が『文章講義』の中で、日本の詩歌ならではの特徴を次のように指摘しているというくだりです。「一句は二句を修飾していると同時に、二句と合体して三句へもかかり、一、二句はさらに三句と合体して四句へもかかり、このようにして止るところを知らず進むのが、日本の詩歌の内包する音楽である(『ものの静寂と充実』p245)」。そしてその例として、「春日野の雪間をわけておひ出くる/草のはつかに見えし君はも(壬生忠岑)」をあげ、「どこまでも意義の後へ後へ続く序歌が、『・・・君はも』という所で一挙に終わってしまうために、受け止めきれない感動が余情となって響く(同書p250)」とその味わいを述べています。文末にいたるまで意味が不明確なまま連綿と続いていくという日本語の性質がうまく活かされているというわけです。

 この二冊の本の中でとくに感銘を受けた文章は、『ものの静寂と充実』では「高橋邦太郎『蜻蛉集』考」、『木魂を失った世界のなかで』では「み雪降る春の山辺」。「高橋邦太郎『蜻蛉集』考」は紫式部など日本の短歌をみごとなフランス語に訳しているジュディット・ゴーチェの技に感嘆しました。「み雪降る春の山辺」では、「『はつなつ』とひらがなで書かれることによって『初夏』という漢字のかげに隠れていた『はつ』『なつ』の音が聞こえてくる・・・『をゆびのうれ』、『ほのしらす』、何という美しい響きであろう(p21)」にまさに同感で、やまとことばの美しさにあらためて感じいりました。

 ヴァレリーの引用がたくさん出てきましたが、「美的無限l’infini esthétique・・・美しい一行の詩句は、限りなくみずからの灰の中より蘇える(『ものの静寂と充実』p307)」とか「イデーから出発して韻を発見するよりも韻が文学的『イデー』を産み出すチャンスの方がずっと多い(同書p190)」など、いずれも詩の核心をついた素晴らしいフレーズで、ヴァレリーの詩論をまだ読んだことがないので、いずれ読んでみたいと思います。

 科学的散文、古典派、浪漫派、象徴派の四つの集団について、修飾語の使い方を統計的に分析したコーエンの研究が紹介されていました(『木魂を失った世界のなかで』p153)。象徴派に向かうにつれて、論理的に飛躍した修飾語や脈絡が切断されている叙述が増えることが証明されていますが、これは実感どおり。

 また、単なる散文を行分けにしただけのようなものでも、行分けすることにより、ある効果を及ぼす例が示されていました(『木魂を失った世界のなかで』p158)。これを読むと明らかに行分けしていない文章と差がありました。それは行分けのあいだの沈黙の中で、言葉のイメージが膨らんでくるからだと思います。

 英仏詩の韻のあり方を比較している文章は、基礎的な知識のない私にとって有益なものでした(『ものの静寂と充実』p200)。多くの例を見て、韻というものはダジャレと紙一重のところがあるなと感じた次第です。

 中原中也が関西日仏学院の通信講義を受けようとして、その教科書や問題を待ち侘びている様子が日記や書簡の中に書かれているそうですが(『ものの静寂と充実』p38)、何となく親近感がわいてきます。

 だらだらと書いてしまいましたので、ここまで。

最後に、私がかろうじて理解できた印象深い文章を引用しておきます。
語にはより明白に「本質」をいうものとそうでないものとがあり、たとえば「煉瓦」は「石」よりも詩心に訴えかける明白さに乏しい/p34

同音異義のあいまいさは・・・単綴語同志の間にではなく、単綴語と多綴語との間に著しい・・・同一語尾や同一助詞によるいわゆる文法韻の危険・・・しかも母音の数がわずかに五個に過ぎないのだから、その退屈さは思い半ばに過ぎる・・・以上見て来たことにより、日本語で、「豊かな韻」はもちろん押韻それ自体が避けられて来たことの理由が、一層明らかとなった/p214

日本語が本来の入れ子構造の中にある時、一つの語が上をことごとく収束して直ちに下に応接する転瞬の妙味は、いささかもフランス詩の韻の魅力に劣らないのである/p215

私には今でもこの詩行の意味がよくわからないが、ただ口ずさむたびに間違いなく、光と色と運動の、ある快い感覚が私を揺するのである。詩の企図する重要な効果の一つに、伝達の意識的未完了ということがあるのではないかと私には思われる/p220

ボンヌフォワによると、詩は記号とそれが指示するものとがぴったり合致するから生れるのではなくて、それが分離するところに初めて現われるのである。詩とは、対象の中で、概念的にあるいは何らかの論理的意味によって表現される部分を破棄することに他ならぬ/p296

詩には曇った雰囲気が必要だという考え・・・新しい撞着語法の尽きざる泉という考え、同じく、流れ出る暗喩の尽きざる泉という考えがあるのだ/p304

以上『ものの静寂と充実』より

私たちは漢字とその意味を取り入れて発音は捨てたように、外国語も文字として書物として取り入れて発音はほぼ捨てて来たのである。・・・口から耳へと流れる生活の喜びと悲しみの場での伝達の回路と、目から頭へと直通する書生知識人の伝達の回路が截然と二分され、ほとんど相互に交わることがない/p16

一体否定という形は言葉にだけある奇妙なもので、「緑はない」といえばかえって強く「緑」をいうことになる。画家にも音楽家にもこの芸当はできない/p24

非人称の文学空間を確立しそのなかに閉じこもってしまえば、私たちは社会の拘束を恐れることなくどんなつくり話をしても咎められることはない/p25

以上『木魂を失った世界のなかで』より