マブソン・ローラン『詩としての俳諧 俳諧としての詩』


マブソン・ローラン『詩としての俳諧 俳諧としての詩―一茶・クローデル・国際ハイク』(永田書房 2005年)


 フランスの日本文学研究者であり、自らも俳句を作っている人が一茶や、クローデルの短詩について書いた本。クローデルの『百扇帖』はまだ全訳が出ていないので、21篇までの原文と、全172篇の全訳が収められているのは貴重。この『百扇帖』の詩文の美しさと構成の巧みさに感心するとともに、あまり知らなかった一茶の句の魅力を分かりやすく解説していたので、私にとってはありがたかった。

 日本の俳句や短歌を、フランス詩の音調的技法や比喩表現の考え方から眺めるなどし、日本詩歌の特徴を語っていますが、他の論者の引用も含め、いくつかの論点がありました。
①フランス語は、音節の長短やアクセントの強弱に頼ることが少なく、音数を数えることができるという、他のヨーロッパ言語にない特徴があり、その点日本語と同じなので、音調的技法も共通していること。
②日本詩歌においても上代では、頭韻が頻繁に使われ、また脚韻に似た技法も見られること。それがなぜ衰退したかという理由として、韻を重要視する中国詩との差別化を図ろうとしたのではないかということ、また日本語の場合脚韻を使用すると同じような語尾や接尾語が続出するという欠陥を挙げている。
③日本の民族音楽が第一拍から緊張がおこるという説を引用して、日本の音に対する感性としては頭韻が相応しいとしている。
④一茶の句にみられる笑いには、大と小、美と醜などコントラストの関係を逆転させた表現法や人間と生物・無生物という二つの系列を交錯させる擬人法が使われていると、句を例示しながら指摘し、それぞれベルクソンの言う「ひっくり返し」の笑い、「系列の交錯」による笑いに通じるものと解説している。


 クローデルの『百扇帖』は初めて読みましたが、いかにもフランスらしい短詩が共通の語彙をちりばめテーマを少しずつ展開しながら繋げられていて、とても新鮮に感じられました。著者はこれを、「史上初めての独吟連詩」と位置づけ、連詩的な読み方の重要性を指摘しています。日本の連句における「付合」に近いものとしていますが、実際にクローデルがその技法を学ぶ機会はなかったと推測しています。クローデルは短詩形という表現法に慣れていなかったので、それまで作り慣れていた長詩のような連関的展開を考えたのではないかと見ています。

 この機会に所持している原書の『Cent phrases pour éventails』(Gallimard,1996)を参照しましたが、文字が印刷されたものでなく手書きなのでとても読みにくい。21篇目以降はこの本から原詩を抜き書きして、気に入った詩をいくつか引用しておきます。ただ連詩的な魅力は本全体を読まないと分かりません。
Tu m’appelles la Rose/ dit la Rose/ mais si tu savais mon vrai nom/ je m’effeuillerais aussitôt薔薇が言う/ 君はわたしを薔薇と呼んでいる/ しかし君がわたしのほんとうの名を知るなら/ わたしはたちまち崩れるだろう(第1篇、p86)
Au cœur de la pivoine/ ce n’est pas une couleur/ mais le souvenir d’une couleur/ ce n’est pas une odeur/ mais le souvenir d’une odeur白牡丹の芯にあるもの/ それは色ではなく/ 色の思い出/ それは匂ではなく/ 匂の思い出(第2篇、p86)
Comme un tisserand/ par le moyen de ma baguette/ magique j’unis un rais de soleil/ avec un fil de pluie織物師のように/ わたしは魔法の杖をもって/ 太陽の光線と雨の糸とを結びつける(第7篇、p87)
Nous fermons les yeux/ et la Rose dit/ C’est moiわたしたちは目を閉じる/ すると/ 薔薇の花が言う/ わたしはここにいますよ(第23篇、p136)
Kwannon/ Au bout de la baquette/ devant l’autel de/ ce point incandescent/ qui est la frontière/ entre la cendre et le parfum観世音の祭壇/ 線香の先の/ 灰と匂との境に/ 白熱の一点(第75篇、p150)
Chut!/ si nous faisons du bruit/ le temps va recommencerしっ、黙れ!/ 音を立てると/ 時間(とき)は再び/ 流れはじめる(第101篇、p157)
J’ai aux poissons muets/ émietté ces quelques paroles/ sans bruit発音することもなく/ 言葉のかけらを/ 無口の鯉にくれる(第128篇、p164)

 クローデルの『日本短詩集』は、京都日仏学院の教授でもあったジョールジュ・ボノーが編集した『日本詩歌選集』に所収されている作品306編の中から26篇を選んで改訳したもので、訳はボノーの方が原作に忠実。クローデルは脚韻をつけたり、句末に流音の“l”を使用するという技法を用いたりなど、調子を大事にしていることは分かりますが、内容を変え過ぎているようです。

 日本の民謡の滑稽性を排し、その抒情性だけを残して、ヴェルレーヌ的な“淡い翳り”と呼んでいいような雰囲気を作り上げている(p205)としていますが、面白かったのは、日本の民謡にヴェルレーヌ的な抒情性が隠れていたということで、これについては上田敏も早々に指摘していたことを知りました。「見送りましよとて/浜まで出たが/泣けてさらばが/言へなんだ」(越後甚句)(p208)というような、都々逸の日本原文を読んでいるうちに、軽快な調子が耳に残って、ほかの都々逸も読みたくなってきました。

 原書の『Dodoitsu』(Gallimard,1945、白ベラム紙特製75部中20部贈呈用の19番)を所持していますが、とても日本らしいきれいな絵が添えられています。表紙と都々逸原詩が気に入っている作品のページを写真でアップしておきます。「恋にこがれて/鳴くせみよりも/なかぬ蛍が/身をこがす」をクローデルは次のように訳しています。「L’AMOUR MUET Chante pour ma fête/ Cigale à tue-tête!/ Mais combien c’est mieux/ Cette mouche à feu/ Qui sans aucun bruit/ Brille dans la nuit/ L’amour lui brûle le corps!」(「恋はもの言わぬ」 祝いの日だから、/蝉よ、あらん限りの声で歌えよ!/だけど、やっぱり、蛍の方が/いいな!/音一つなく/夜に輝くその体、/その体こそ恋に焦がれるのよ!)」(p230)
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 『海を越えた俳句』や『明治日本の詩と戦争』で、これまで読んできた海外のハイカイは、俳句とは別のものという印象がどうしてもぬぐえませんでした。フランス短詩は俳句とは別のものとして鑑賞した方がいいように思います。この本で著者も告白しているように、フランスの俳人たちも日本語ができる人は最終的に日本語で俳句を作る方を選ぶようです。それだけ俳句と日本語とは密接なものなんだと思います。