:柏倉康夫『パリの詩・マネとマラルメ』


柏倉康夫『パリの詩・マネとマラルメ』(筑摩書房 1982年)


 この本は、前回読んだ『マラルメの火曜会』より前に書かれた本で、この本の結末の文章には、「マラルメの火曜会」について将来書くことを予告するような文章がありました。読む順序が逆だったようです。また第八章「パリの上流生活」に『マラルメの火曜会』の第三章「教師の日常」と同じ文章があるなど、重複する部分があちこちに見受けられましたが、同じ人が同じマラルメについてその都度雑誌の求めに応じて書くわけですから、同じことを書いてしまうのはやむを得ないでしょう。


 いろんな論点がありましたが、今回もまたマラルメの詩についての考え方に着目しながら読みました。
①詩の創作にあたって、頭で言葉やイメージを考えるのではなく、バイオリンの弦の振動が空洞の胴と微妙に共鳴するように、ある観念が微妙な過程を踏んで身体の神経組織の中で発展するにまかせる方法を採る。すなわち自己の主体を放擲し完全に純粋な意識状態を創りだすことが重要としている(p50)。これは明らかにポーの詩論の影響であり、またこの本で紹介されているマネの絵画論、「風景や人物を二度と同じプロセス、同じ知識、あるいは同じ様式で描いてはならない・・・一つ一つの作品は、新たな心の創造物でなければならない」(p227)に通じるものがある。
②前回のブログで引用した詩(「小曲集」のⅣ)の詩の創作の秘密が書かれていた。初めに詩人の頭の中に〈ix〉の韻を持ついくつかの単語、〈onyx〉、〈phoenix〉、〈styx〉、〈ptyx〉をめぐる漠とした感覚が生まれ、その音が主導権をとって内容を展開していったという(p57)。これは日本の詩でも応用できそうだ。
③「半獣神の午後」の成立過程が克明に紹介されていた。当初は「半獣神の独白」と題する詩劇として書かれ、さらに「水の精達の対話」「半獣神の眼覚め」の2部が付け加えられた後、劇としては完成を見ないまま、10年後、最終的に純粋の抒情詩「半獣神の午後」になったという。確かに劇としては無理があるように思う。冒頭の一句、est-ce un songe?「あれは夢か」(「半獣神の独白」)がaime-je un rêve?「俺は夢を愛したのか」(「半獣神の午後」)と変わっていて、水の精が実体としての存在から半獣神の内部に生起する観念へと変化したと説明されていた(p211)。
④詩のひとつの言葉が詩全体のなかで位置づけられ、言葉同士が相互に関連し影響し合ってひとつの世界を形づくるということを次のように書いている。「最初の思想を表現している第一番目の語は、それ自身詩篇の全体的効果に貢献しているだけでなく、さらに最後の語を準備する役目も果たしている・・・詩篇の中において言葉が、―もはやそれぞれの語本来の色合を持っていないように見え、しかも、それらの語は、一色階の転移してゆく微妙な過渡的過程の集積にほかならぬと思える―そう思えるほど、互いに他の語の上に映発し合っている」(p240〜241)
マラルメの素顔のひとつとして、『最新流行』というモード・ファッション情報誌の原稿執筆、編集を一人でこなしていた時期があったこと。日常生活を豊かに彩る品々に宿る美しさを発見して、それを女性の読者に伝えることに喜びを感じていたらしい。著者はマラルメに女性的な傾向があったとしているが、記事のトーンを読めば、明らかに男性の目線、声色で恭しく女性に語りかけている感じがある。「彼はすべての事柄の中にかくされている詩を引きだしてみせた(J・P・リシャール)」(p176)という言葉が引用されていたが、ボードレール散文詩『パリの憂愁』に近いものがあるような気がする。


 新しく知りえたことは、「イジチュール」という言葉が、ラテン語訳聖書の創世記第二章の第一節「かくて天と地とその万象とが完成した」の「かくて」のラテン語から取っていること(p62)、パリコミューンの死者は2万人と推定されている一方フランス大革命の犠牲者はフランス全土で1万2千人だったこと(p78)、ゴーティエの死を悼むために、フランスをはじめ、イギリス、ドイツ、イタリアなど世界中から83人の詩人による綜合詩華集『テオフィル・ゴーティエの墓』が刊行されたこと(p104)、フランスのヴァカンスの習慣がブルジョア階級から一般に普及したのは1936年頃だったこと(p154)。