高層ビル都市が舞台の小説二作品

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ヤン・ヴァイス深見弾訳『迷宮1000』(創元推理文庫 1987年)
JAN WEISS『la maison aux mille étages―L’humanité prise au piège(1000階の家―罠にかかった人類)』(MARABOUT 1967年)
テア・フォン・ハルボウ秦豊吉譯『メトロポリス』(改造社 1928年)


 幻想建築ものを読もうと考えて、まず不思議なタイトルが気になっていた『la maison aux mille étages』を取り出し、やはり積読状態の『迷宮1000』と同じ原作ということに気づいて、日本語訳の方を読みました(フランス語版は序文だけ読んだ、著者はチェコの作家で原作はチェコ語)。そのついでに、同時代に似たようなテーマで書かれていたドイツの小説で、学生時代にいちど読んだことのある『メトロポリス』を再読してみました。この『メトロポリス』は、もう50年ぐらい前、京都の古書会館の玄関先の均一棚で(と思う)、今は亡き古本仲間と同時に見つけ、本を左右から引っ張り合ったあげくにじゃんけんして入手したことを思い出します。


 『迷宮1000』は、まず謎からスタートするのがいい。冒頭、主人公は夢うつつの状態から目覚めます。この夢が何とも言えず魅力的で、賭けトランプに興じている連中が灯りに照らされ、その奥の広場に大勢の人が凍えそうに横たわっていて、一斉に寝返りを打つというもの。夢から目が覚めると、記憶喪失の状態で、しかも上と下に延々と続く階段の途中に置き去りにされているのです。さらに謎が深まるのは、ポケットから手帳が出てきて、そこに5つの指令がメモされていたこと。また新聞記事の切り抜きが3つ挟んであり、美女の失踪事件が相次いでいること、王女の失踪事件について探偵に委嘱されたことなどが判明します。どうやら自分は探偵らしい。

 記憶喪失から始まるのは、ロバート・ラドラムの『暗殺者』でもありましたが、他にもたくさんあって一ジャンルを形成しています。物語は、その後も、「この手紙を開封できるのは、最初の鏡の前へ立ったときに限る」と謎めいた表書きのある手紙がポケットから出てきたり、自分が迷い込んでいるのは1000階建てのビルの形をした巨大な都市で、ミュラーという独裁者が支配しそれに反乱軍が対峙しているらしいことが分かってきますが、その独裁者には諸説がいろいろあって、どんな人物か、あるいは本当に存在しているのか、最後近くまで謎が続いていきます。

 もう一つの要素は、主人公が目に見えない存在で、その利点を生かして自由に高層都市の中を移動し、独裁者の身辺の傀儡をやっつけるという透明人間物語であることが重要な点。残念なのは、最後にすべて夢だったという、幻想小説で犯してはいけない禁則を使っているところです。

 荒唐無稽なありえない話と突き放してしまえばそれまでですが、いたるところに奇怪な想像力が顔を覗かせているのが、この作品の優れたところ。反乱軍の首領を始末するためエージェントを集めての会議では、各メンバーが、ナイフ、毒薬、ウィルス、血清、毒ガス、催眠術などの殺人技を自慢し合ったり、星間貿易の品々を並べたショーウィンドーには、「星の天子の涙から抽出した香水」だとか「猿の病気に効く妖精の血液」、「B-1星に住むガムシの性腺」が売られていたり、独裁者の著書『花を苛む方法』には、〈バラの苦しめ方〉の処方が克明に記されていたりします。

 訳者も「あとがき」で書いているように、その想像力が未来を先取りしていることが凄い。ヒットラーがまだ政権を取る前の1929年に出版されているにもかかわらず、ヒットラーのような独裁者が登場し、宇宙への移民に応募した人たちがホールに閉じ込められ毒ガスを嗅がされ炉で焼かれるというナチスの収容所を予言する描写があり、また天井に取り付けられた凸レンズの監視カメラは現代の風景を予感させます。

 Jiří Hájekという人によるフランス語版の序文で、ヤン・ヴァイスには、第一次世界大戦で、シベリアの捕虜収容所に入れられ腸チフスになった経験があり、それが作品に大きな影響を与えているという指摘がありました。また本作に近いとされるシュルレアリスムカフカの作品(ちなみに本作が書かれた当時はまだカフカの作品はほとんど出版されていない)に触れ、夢や無意識にのみ関心のあるシュルレアリスムと異なり、ヴァイスは夢と現実との結びつきを断ち切っていないこと、人間の疎外を冷酷に分析し比喩的に表現しようとしたカフカに比べ、ヴァイスは疎外に立ち向かいかつ世界を詩的に捉えようとしているとしています。  


 『メトロポリス』も、同じく高層ビルの都市が舞台で、フレデルセンという独裁者が最上階の一室で機械を管理しており、上層階には上流階級、地下世界には労働者が住み虐げられているという構図です。『迷宮1000』と違うところは、古いゴシック教会や建物も残っており、「ヨシワラ」という歓楽街が存在しているのが愛嬌。フレデルセンには息子がいて、息子は自分の立場に疑問に感じ、労働者の味方をして、父親との仲介に立とうとします。最後は、恋人マリアとともに新しいメトロポリスの建設を目指すというところで終わります。

 『メトロポリス』では、恋人マリアにそっくりなロボットが登場するという分身譚的要素があるのがもうひとつの重要な特徴(ちなみにロボットが作品に登場するのはチャペックの方が早い)。最後の場面では巨大都市が崩壊し、鋼鉄の資材や石が崩れ落ちる場面は、映画を想定しているだけに迫力がありました。がストーリーは抽象的観念的(おとぎ話的と言えばいいか)で、現実感や説得力に欠けるところがあり、また恋人の名前がマリアであったり、聖書の言葉のような箴言が出てきたり、鞭打ち苦行の行列が描かれるなど、宗教的な雰囲気がありました。

 翻訳については、原書が発刊されたわずか2年後に刊行するという早業の割には、完全な日本語になっています。ただ、時代が時代だけに、「僕が悪うござんした」、「お母(っか)さん」、「好(よ)うござんすか」など、訳文が古風で滑稽。また、当時流行していたモダニズムの文体みたいなところもあり、混在しているところが面白い。


 この二作品はともに、エレベーターで高速移動する高層ビルが舞台となっており、機械が都市を動かし、中央の制御室で機械を管理する構造になっていますが、これはやはり当時ニューヨークを中心に高層ビルが林立しはじめたことが背景にあります。ネットで調べてみると、エレベーターは19世紀半ばから蒸気式のものが開発され、1880年ごろには電動式エレベーターが登場しています。これを受けて、1902年22階建てのフラットアイアンビルディング、1909年50階建てのメトロポリタン生命保険会社タワー、1913年57階建てのウールワースビル、1930年77階建てのクライスラー・ビルディング、1931年には102階建てのエンパイアステートビルと次々に竣工しています。片や作品のほうを見ると、『メトロポリス』は1924年にまず映画のシナリオとして書かれ(映画は1927年公開、これも学生時代に見ている)、1926年に小説として出版され、一方、『迷宮1000』は1929年の出版となっています。まさに高層ビルの建設ラッシュのなかで書かれた作品ということが分かります。ちなみに、現在もっとも階数の多いビルは、ドバイのブルジュ・ハリファで206階、2025年完成予定のドバイ・シティ・タワーは400階建てとのことで、それでも『迷宮1000』の1000階にはほど遠い。

 二作品にもうひとつ共通するのは、独裁者や上流階級と、労働者や奴隷たちの下層階級に分裂しており、住んでいる場所も高層階と低層階(『メトロポリス』では地中世界)に分かれ、両者が対立し戦うことです(『迷宮1000』では最初から反乱軍が戦っており、『メトロポリス』では後半に労働者の暴動が起こる)。この構図もこの時代ならではのものでしょうか。