岡崎文彬の二冊

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岡崎文彬『ヨーロッパの名園』(朝日新聞社 1973年)
岡崎文彬『名園のはなし』(同朋舎出版 1985年)


 引き続き岡崎文彬。前回の『ヨーロッパの造園』が概説とすれば、この二冊は、著者のお気に入りの庭園を個別に紹介した本。『名園のはなし』のなかで、「退職後、私が企画した『名園を探ねる旅』は10回近くに上っており」(p68)と書いているように、学者というよりも、旅行代理店のツアーガイドの目線で書かれており、観光案内的な印象が濃い。             

 『ヨーロッパの造園』の写真は小さくて見づらかったですが、この二冊では、写真は大きくあしらわれ、さらにカラー写真もあって、より分かりやすくなっています。内容的に『ヨーロッパの造園』につけ加えられたことは、個々の庭について詳しく解説がなされていることぐらいで、庭園の見方については変わりはありませんでした。『ヨーロッパの名園』と『名園のはなし』の違いは、『名園のはなし』では、タイや中国、韓国など東洋の名園にも言及があるということ、大規模なものを避けて、こじんまりした庭園が取り上げられているということでしょうか。

 写真を眺めていて、人間の造形の力がみなぎる整形式庭園と自然のおおらかな優しさに包まれるような風景式庭園の双方に、それぞれの魅力を感じました。ガゼルタ離宮のカスケードの壮大さ、ロワールのヴィランドリー城の装飾花壇やイタリアのガルツォーニ荘の花壇の緻密さ、ヴェルサイユを模したヘレンキムゼーのラトナの泉水の劇的迫力、それに対してのエルムノンヴィルのルソー島やベルギーのベロイュ城の風景庭園の静けさ。

 エトルスキの遺物がどこの博物館よりも多く陳列されているというローマのジュリオ荘、近代の迷路の代表と紹介されていたバルセロナのオルタのエル・ラベリントにも行ってみたい。

 「ブリッジマンは整形園と非整形園との橋渡しをした造園家」(『名園のはなし』p15)という文章がありましたが、これは洒落を言うためにわざわざ書いた言葉でしょうか。近くへ行かないとそこに垣があるか分からず、みんな「ハハア」と言うので、「ハハア」と名づけられた隠れ垣を発明したのも、このブリッジマンということです。


 ここからは蛇足ですが、ピョートル大帝が、ル・ノートルの高弟ル・ブロンをフランスから総監督として招聘し、大樹林を人工的に作り上げるなどしたペトロドヴォレツ庭園の工事で、何千人もの労働者が寒さと飢えと疫病で命を落としたと書かれているのを読んで(『ヨーロッパの名園』p226)、巨額を投じ人々を苦しめても造ろうとする意味は何かと考えてみました。

 万里の長城なら、国の防衛ということで分かりやすいですし、ピラミッドや兵馬俑も死後の世界に係わりがあるということで分からないでもないですが、峻厳な山腹に建てられたノイシュヴァンシュタイン城や、広大な敷地のヴェルサイユ宮殿の意味は何でしょうか。美に対する執着か、権力の誇示か。現代に置き換えると、巨大なオリンピック・スタジアムを造ったり、超高層ビルを競い合ったり、立派なオペラ・ハウスを造ったりすることと共通点があるのかもしれません。美や技術を総合した文化の力で、国力(あるいは都市力)を示すということでしょうか。規模は小さくなるとはいえ、これらの本に紹介されている数々の庭園もそうした文化的な威信の現われということでしょう。

 そのとき、建造に携わった人々はどんな思いだったのでしょうか。現代では、現場の作業者にはプロとしての誇りがあります。過去においても、設計や全体のマネジメントにかかわる人には、世紀の建造の一端を担うという思いがあったはずです。実際の労働者はどこまでそれを感じていたのでしょうか。一般に考えられているのと違って、戦争の捕虜となったりして作業させられたとしても、奴隷として働かされているという気持ちの他に、少しは喜びも感じていたように思われてなりません。シジフォスの神話のように、無意味な労働を強いられるのでない限りは。