芳賀徹編『翻訳と日本文化』(山川出版社 2000年)
鴻巣友季子『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書 2005年)
これまで読んできたのよりは、出版年の新しい本です。これまでとは違った新たな視点があるのが特徴。『翻訳と日本文化』では、書籍にとどまらず、外交上の翻訳や映画字幕でのケースが取り上げられ、日本の作品を逆に海外に向けて翻訳する場合の諸問題にも触れられていましたし、『明治大正 翻訳ワンダーランド』では、翻訳者の立場から、過去の代表的な翻訳が論じられています。双方とも、文章が読みやすい。
『翻訳と日本文化』は、総勢17名が参加していて、四部に分かれ、第一部は過去の翻訳史を振り返りながら、筆者それぞれの得意分野について、第二部は日本作品の海外への翻訳、第三部は書籍翻訳以外のさまざまな翻訳についての論考が並び、最後に日本作品の翻訳(ドナルド・キーン)、日本古典文学の研究(中西進)、英語翻訳・演劇評論(小田島雄志)、比較文学研究(芳賀徹)の面々が集まっての座談会となっています。
もっとも印象深かったのは、第三部で、村上春樹が自作の英語への翻訳について語っていた文章で、自分の書いた小説のディテールの大半は忘れてしまっているので、自作の英訳本をわくわくしながら面白く読めると、正直に告白しているのが好感が持てました。このところ、韓国かベトナムの官能的な恋愛小説をフランス語訳で日本人の私が読むという屈折した読書を一度試みたいと思っていますが、自分の書いた小説を英訳で読むというのは村上春樹ぐらいにしかできない境地だと思います。村上春樹は、また、優れた翻訳に必要なものはもちろん語学力だが、小説の場合、それに劣らないのは作品に対する偏愛だとしているのも心に残りました。
これまで読んできた本で、鴎外の訳が優れている理由を、生まれつきの資質によるものと結論付けているものがありましたが、その資質というのは、ちょうど天才ピアニストと呼ばれる人たちが幼少時からピアノに慣れ親しんでいるように、幼い頃から文章に親しんで育った人が、文章に対する特別に磨かれたセンスを持つようになるということに違いありません。読者の立場からすると、やはり日本語として読んでいて感銘を受けるものが優れた翻訳だと思うので、それには訳者が文章に対するそうした資質を持っていること、原作の素晴らしさとそれに対する訳者の偏愛が重要ということでしょう。
いくつかの論点がありました。
①翻訳における文化力の強弱:別の本で、翻訳は国の文化力の高低差によって生じるという指摘がありましたが、この本でも、「翻訳とは、いつも翻訳する側からの自発的・主体的な要求がなければ成立しえない文化現象であり、翻訳される側からの示唆や教示はある程度作用しえても、指導や強制は無効なのである」(序文)という言葉がありました。日本と同じく、中国においても、19世紀以降、翻訳局という機関が設けられ、西洋の書物の翻訳が盛んに行われるようになったと言います。最初は、まずは物質面から導入し、それが浸透するにつれて次第に精神面の受容へと拡大していったという流れも日本と同じです。
②古代における中国の影響:奈良時代に編纂された漢詩集『懐風藻』では、大津皇子のように、当時の中国の詩壇の潮流から50年ないし100年遅れた詩の技法を懸命に模している一方、『万葉集』では、山上憶良に見られるように、漢詩の影響は濃厚に現われているが、あくまでも中国のものを素材として受容しているだけと言います。さらに平安時代の紫式部は、幼いころから漢籍に通暁していて、中国の文学を手掛かりとして独自の表現世界をつくり出したとしています。
③中国における口語体の発展:中国で本格的な小説が誕生したのは、『源氏物語』に遅れること300年、14世紀末のことであり、文言(書き言葉)で書かれていたが、17世紀になって、講釈師の「話本」をもとにした白話(話し言葉)による近世小説が誕生したといいます。翻訳の開始も日本とほぼ同時期でしたが、口語文体の成立は日本よりも30数年遅れたとのことです。福沢諭吉と同じような役割をした厳復という人が居たけれど、知識階級だけを対象としたので、古典中国語で翻訳をしたのが理由のようです。
④読むという行為自体が翻訳:幼児が言葉を覚える際、未知の単語が母親によって自分の知っている易しい言葉に翻訳されるのを求めている、この意味で、一国語内での翻訳は、異国語間での翻訳と本質的に違うところがない、というオクタヴィオ・パスの文章が引用されていました。
⑤現在の日本語も一種の和漢混淆文:やまと言葉を尊重した本居宣長でさえ、一種の和漢混淆文で書いており、われわれが使っている文体も一種の和漢混淆文であるとしたうえで、長い時間のうちに、和文のなかに漢語が浸透することによって、日本人のものの考え方や感じ方がつくり上げられてきたと指摘しています。
『明治大正 翻訳ワンダーランド』は、読み物として面白く、友達同士で喋っているようなざっくばらんな感じがあります。著者が実際に読んだ明治大正の翻訳家たちの一人一人に焦点をあてて綴っていますが、これまで読んできた翻訳史とは少し違って、明治20年以降で、かつ大衆的読み物に傾斜していて、森田思軒、若松賤子、黒岩涙香、小金井喜美子、永井荷風、内田魯庵、佐々木邦らが取り上げられていました。どちらかというと私の趣味に近いものがあります。
この本でも新しい視点として、ノヴェライゼーション、時流を意識した翻訳ビジネス的な動き、戯曲、童話、艶書などジャンル別の考察や、翻訳と銘打って実は創作という偽作の問題、原作より翻訳の方が有名になったケースなどいろんな切り口から書いています。
面白かったのは、文章の言葉と芝居の言葉が違うという指摘で、読む戯曲なら、日常会話で使われないような表現であっても、その違和感が逆に引っかかりとなって、不調和がむしろ深遠な魅力になるが、瞬間芸術である芝居のなかでは、文章的な言葉は不自然に聞こえてしまうというところです。
両著を通じて、翻訳の心得のようなものを拾って、自分なりに要約してみますと、
①一字一句にこだわるよりは、原文の意を伝えることに重きを置くことが、平明な文章への道であること。
②翻訳者は個人的な好みを前面に出してかまわない。無色透明になりきれないし、なりきろうと努力すればその結果は魅力のない作品になってしまうだけ。
③翻訳する際、原文の意味の一部が失われてしまうのはやむをえない。この損失をなるべく少なくするのが翻訳者の務め。
④翻訳する技術の大半は、何が翻訳できないかを知ることにある。翻訳者に、日本の詩歌を一つ残らず翻訳する義務などない。それを乗り越える一つの方法として、注解付きの翻訳というかたちがある。
⑤人称・指示代名詞が適度に省けるようになれば訳者も一人前。
まだ、柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』、『西洋文学の移入』や島田謹二『日本における外国文学』ほか、翻訳の関連書をたくさん持っていますが、上記三著は大著でもあり、またこのテーマにやや食傷気味なところもあるので、しばらく間を取って、忘れた頃にまた読んでみようと思います。今年は、あまりテーマに絞られずに、気楽に読んでいきたいと思います。