:前川祐一『イギリスのデカダンス―綱渡りの詩人たち』


 『デカダンスの想像力』を読んだ勢いでこの本も読んでみましたが、全くタッチが違うので戸惑いました。「デカダンス」というタイトルにはなっていますが、デカダンスを正面から論じてはいません。デカダンスの時代と重なる19世紀後半のイギリス作家を7人取り上げ、その作品と美学をデカダンスという切り口を通して見たという感じでしょうか。


 7人とは、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、スウィンバーン、ペイター、ワイルド、ダウスン、アーサー・シモンズ、ビアボウム。最後の1章で、ハーディ、ジョージ・デュ・モーリエ、マドックス・フォードの3作家の作品を取り上げ、少し補強をしています。


 あまり悪口は言いたくありませんが、この著者の悪い面を述べれば、はっきりものを言わずに回りくどい表現をするクセがあり、気取った感じの文章になって分かりにくいところ。講演会をしているかのように、途中でやたらと脱線して自分の知っていることを述べるので、論旨が曖昧になるところ。そして「ぼく」の乱発、この感性は受け入れがたい。


 内容は、さすがにいろいろと教えられるところが多かった。とくにスウィンバーンやビアボウムについてはあまり知らなかったので。

 スウィンバーンが、彼の母親からの要請を受けたワッツ・ダントンによって、拉致同然のやり方で幽閉され、文学界社交界から姿を消したこと。
 スウィンバーンが水泳を得意としていて、海と水泳の描写に関してはとても迫力があり他作家の追随を許さなかったこと。先日の読書『異常な物語の系譜』(4月17日の記事参照)には、スウィンバーンが溺れかけてモーパッサンに助けられたというエピソードがありましたが、あれはなんだったんでしょうか。


 ロセッティからアーノルド、ペイター、ワイルド、ビアボウムに至る、現実と芸術の関係についての考え方をたどった論考はよく理解できました(のつもりです)。

 ロセッティは「神がそなたの心になせと命ずることだけをしなさい。」と、自分の心を最上段に置き、アーノルドは「対象を現にそれ自体あるがままに見ること」と言い、ペイターはその対象を見ている側の自分に与えられる印象としてとらえ、「現実を見えるがままに存在するもの」ととらえた。そしてワイルドは「今日人々が霧を見るのは、霧があるからではなくて、詩人や画家が、霧による効果の神秘的な美しさを教えたからなのだ。」と言って、現実を芸術に隷属するものと見た。マックス・ビアボウムでは、とうとう現実と作品世界の主客の区別がつかなくなってしまった、という流れです。

文中から引用すると、

美学の批判にあっては、対象をあるがままに見るための第一歩は、自分が受け取った印象をあるがままに知ることであり、それを識別し明確に心に描くことである。・・・この歌あるいはこの絵、人生や書物に登場するこの魅力的な人物は、わたしにとってなにであるのか?それが実際にわたしにどのような効果を及ぼすのか?それは私に喜びをもたらすのか?そうだとすれば、どのような喜びか、どの程度の喜びか?・・・これらの問いに対する答えこそが、美に関する批評家が扱うべき基本的な事実・・・(ペイター『ルネッサンス』序文)/p45

このはげしい、宝石のような焔で絶えず燃えること、この恍惚状態をつづけること、これが人生における成功である。・・・われわれのなすべきことは、つねに好奇心をもって新しい見解を検討し、新しい印象を得ようとつとめることであって、・・・われわれの参加できない関心事、自分とは関係のない抽象理論、単なる因習にすぎないものごとのために、いささかなりとも・・・耳を傾ける義理などないのである。(ペイター『ルネッサンス』)/p118

 アーノルドの場合、大きな事物の前に小さな人間が立って、その事物を何とかして「あるがままに見よう」とその周囲をウロウロしている。ペイターの場合にはその壷(事物)の影が少々薄れて、細かい印象の粒子に分解している・・・ワイルドの図式からは壷(事物)の姿が忽然と消えてしまった。/p128

恒例により印象に残ったフレーズ。

ぼくにはまだキリストは降誕していない。・・・霊性はぼくの感知するところではない。ぼくは幻影よりも彫像を、黄昏よりも白昼を好む。ぼくの好きなものは3つ。黄金と大理石と深紅。光輝と堅牢と色彩。ぼくの夢想はこれらで作られ、幻想のために建てるすべての宮殿は、これらの材料から成る。(ゴーチェ『モーパン嬢』第9章)/p13

ボードレール万物照応」で自然を宮殿に喩えた表現が出てきますが、それに影響を与えたという感じを受けます。

もしも美しいものが見えないなら、口をつぐんで、それでも美しいものがあるのかもしれないとつつしみ深く反省し、それを求める努力のうちに自分たちの愚鈍な感覚を訓練するがいい(マックス・ビアボウム)/p27

放蕩とか道楽はすべてこれ人間自然の欲望を感傷的に誇張することだから、これをやってのけたり描写すれば滑稽になる。大食漢、大酒飲み、異常な性癖の助平野郎―これらはいずれも見てくれは喜劇だし、そんなものとして眺められるべきである。(クロフツ=クーク『豹たちとの饗宴』)/p30