:フランス中世の本、小佐井伸二『中世が見た夢』

         
小佐井伸二『中世が見た夢―ロマネスク芸術頌』(筑摩書房 1988年)
                                   
 引き続いてフランス中世の本。この本は美術の本というより、中世への憧れに満ちた手記といった印象です。著者が「幸い、ぼくは美術史家ではないから(p83)」と自ら書いているように、美術は専門ではなく、フランス語の先生のようで、フランス各地のロマネスク建築を訪ね歩きながら、宗教の歴史にも触れつつその美しさ、精神性を讃美したものです。

 ここしばらく読んだ黒江光彦や吉川逸治と違うところは、文章にとても特徴があり、いかにもフランス文学者らしい抒情的な情感が溢れているところです。日記や会話体を駆使し、回想する場面も多く、小説的味わいが感じられました。清水茂や宇佐見英治のエッセイを読んだ時の印象と似ている気がします。「ぼく」と自分を表現する若干嫌味なところや若書きのところも感じられますが、私自身の若き日を見る思いで共感できました。

 丸っきりのキリスト教信者でもなく、自らの信仰心に懐疑を抱いていることをどこかで告白していましたが、そうは言いながらも心の奥底に敬虔な気持ちがあることが感じられ、また神秘主義への傾倒ぶりがうかがわれて、これもまた共感できました。

 教会や修道院の建物の構造を事細かに説明してくれていて、それがこの本の重要な部分なんだと思いますが、専門用語が多くてよく理解できませんでした。いや、たとえその言葉の意味が分かったとしても、形状が頭に描けなかったと思います。写真を見てもよく分からないぐらいですから。雰囲気だけを味わったといったところでしょうか。


 ぐだぐだ説明するよりは本人の文章を読んでもらうのがいちばん分かりやすいので、以下引用。

円蓋の中央に八つの花弁をひらいているまさに花のような小円窓。その鐘塔の鼓胴部内部は宙に懸っている光の泉だ。/p23

ぼくはここに帰って来たのだ・・・はじめて、キュクサを訪れたときにさえ、ぼくはそう思わなかっただろうか、帰って来た、と。/p81

あらゆる悪魔たちが嬉々としてかれらの仕事(恐ろしい責苦の!)に励んでいる。壁面一杯にひびきわたる悪魔たちの哄笑がわれわれの目にも聞こえてくる。/p124

「存在を越えて秘められた神性については、聖書がわれわれに神にふさわしく開示したこと以外に、あえて語ることも、考えることさえもしてはならない。理性や思考や存在を越えているあの超存在的なものを認識しないこと、それが超存在的なものの認識の目的である・・・それぞれの知性にふさわしい範囲において、神のさまざまな秘密は明かされ、示される」(偽ディオニシウス『神名論』)/p146

その厳しい表情に、たとえかすかにしろ、悲しみが漂いはじめるように思われるのだ。/p149

ぼくの心を打ったのは、言うまでもなく、それらの壁画が表現しているまさにめくるめくように高い精神性だ。それと同じように高い、あるいは深い精神性の表現をぼくはあのオルシヴァルの教会堂建築に見て、狂喜したのだ。なぜなら、ひとはいったんそのような精神のめくるめきを知ると、もうそれなしには生きられなくなる。/p252

神にとって創造することは自己を現すことである。その結果、創造が自己の啓示であるように、自己の啓示が創造となる。それゆえ、スコトゥス・エウリゲナは、神は存在物を創造することによって神自身を創造すると言うところまで行く・・・創造行為のこのような概念は、それゆえ、被造物の実体の相関的概念をもたらす。神の表出である宇宙は、もし神が照射することを止めるなら、存在することを止めるだろう。存在物の産出のように、存在物の実体そのものがひとつの照明である。/p323

 少しの間、またブログを休みます。