FRÉDÉRICK TRISTAN『La cendre et la foudre』(フレデリック・トリスタン『灰と雷』)


FRÉDÉRICK TRISTAN『La cendre et la foudre』(BALLAND 1982年)


 フレデリック・トリスタンを読むのは、これで5冊目だと思います。ネットで見ると、トリスタンの作風には、中国もの、幻想驚異もの、偽史もの、迷宮ものの4種あるとしています。なぜ中国ものがあるかというと、トリスタンはグラフィックの仕事をしていて、その関係で、ベトナムや中国に滞在していたことがあるからのようです。この分類でみれば、これまで読んだのは幻想驚異もの3冊、迷宮もの1冊で、中国ものを読むのは初めて。

 本作は、ひとことで言えば、中国を舞台にしたファンタジー小説で、明と清という王朝名が出てきますが、史実とはまったく関係がなさそうです。劇画調と言えばいいのか、極端な豪傑が登場し、幻術を駆使して闘ったり、奇想天外なことが起こったり、仏陀や観音、道教の神々が次々と登場するなど、荒唐無稽と思われるところも多々ありました。

 物語は、大きな枠物語になっていて、ある男が眠っていると、100年前に死んだという女が現われ、生きている時に夢のなかで聞いた話が重荷になって、誰かに話さないとあの世でも落ち着かないからと言って聞かせてくれたという前振りがあり、最後に、これが夫人が語った話だ、という言葉で終わります。話された内容は概略次のとおり(ネタバレ注意)。

明の名君ティエン・キ皇帝の治世に、北西からモンゴル軍が攻め寄せて来たとき、堕落した明軍が戦線を放棄したところを、山岳仏教集団が仏助によってモンゴル軍を殲滅し、皇帝にしか所持を許されない印璽を賜った。皇帝から罷免された明軍の元帥は、仏教集団に恨みを抱いて、皇帝が亡くなり新皇帝が誕生すると、また元帥に復帰し、仏教集団を壊滅させようと、作り話をして新皇帝を唆す。印璽を取り戻したい新皇帝は、仏教集団に新年の祝いとして毒入り酒をプレゼントし、悪疫で死んだということにしようと奸計をめぐらす。

元帥は、毒入りワインを持って寺院へ乗り込み、同時に軍に寺院を包囲させる。仏教集団の管主は毒入りと見破ったが、すでに兵士が寺院に乱入し、寺院に火を放った。混乱のなか管主と4人の僧は辛くも仏助によって脱出できた。一方、印璽が手に入らなかった皇帝は、元帥を罷免し、代わりに満州族の古い家柄のシェ・ツーを後任に据えた。しかし、シェ・ツーはすでに貴族たちへの根回しによって、皇帝を引きずり降ろし自分が新たな清王朝の祖となる準備を整えており、直ちに皇帝を地下牢に閉じ込める。

新しく成った清朝皇帝は、逃げた僧が印璽を持っているとして、全土に高額懸賞金の指名手配をかける。管主と4人の僧は途中でかくまってくれた船頭2人とともに逃げるが、ついに浜辺で大勢の兵士に取り囲まれた。万事休すのとき海に橋が架かり、それを伝って逃げる。兵士らには橋が見えなかった。橋の先には、焼き払われた寺院で死んだ僧たちが待っていて、再会を祝す。仏陀の助けにより一行7人は天に昇り、不死の宮殿の翡翠の皇帝に、今後どうすべきかの指示を仰ごうとしたが、天上軍の元帥によって3年間牢に入れられてしまう。

その3年の間に、中国では、印璽を見つけられないという理由で、元帥が次々と交代させられ、そのたびに暴虐の度合いが強くなって、全土が殺戮の巷と化し密告が横行していた。見かねた仏陀は、翡翠の皇帝に管主ら一行7人を釈放させ、中国の解放に力を貸そうと約束する。一行は地上に降りると、清朝を打倒せよという宣言文に印璽を捺印したお触れを出したので、清朝皇帝は怒って、そのお触れの元に大軍を派遣した。一行はまた逃亡し、古い寺院に辿り着くが、目覚めると寺院が船になっていた。川を遡って行くと、市が開かれていて、そこから柳の町の赤い花の宮殿が遠望できたが霧に霞んでしまう。そこで一同目覚めると、まだ古い寺院のなかだった。

途中で馬商人5人が合流した一行は、ある村で虐殺を終えたばかりの兵士たちと遭遇する。管主が桃の木の剣を天に向けると、虐殺された死者が起き上がって、兵士らの首を絞め殺した。隣の村に行くと、騎馬兵らが居て、一行に襲い掛かってきたが、また剣を上げると見えない壁ができて馬が転倒した。隊長は逃げ、騎馬兵らは彫像と化した後ひび割れて粉々になる。その後、一行は、地下牢から無事脱出していた明王朝の皇帝と合流でき、皇帝が深く反省していたので、印璽を皇帝に預けた。一方、中国の各地では民衆が蜂起し、シェ・ツー皇帝自らが率いる軍が鎮圧しようとして谷間で立ち往生してしまっていた。そこへ管主ら一行が訪ねて正式な決戦を申し出る。

管主らの反乱軍が西、シェ・ツー皇帝の軍が東に陣を取り、5千の兵ずつで戦うことを決め、戦闘が開始されるが、両陣営同数の死者を出しながら推移し、最後は、反乱軍を統括する軍神と皇帝軍元帥の一騎打ちとなった。軍神は元帥を刺し殺すが、自らも無傷のまま命を終える。管主ら一行は、軍神を手厚く葬ったのち、秘密結社天地会を結成することとした。その後管主ら一行が具体的にどうなったかは分からない。

 後記として、トリスタンが次のような説明を加えています(抄訳の意訳でかなりいい加減、以下の引用句も)。
中国の秘密結社天地会、またの名、三合会は実在し、アジア全体に広がって、あるときは毛沢東の小細胞として、またヴェトナムの抵抗戦線として現われた。今日でも、世界中の中華街に存在していて、中華料理店主が信者だったりする。この作品は、イギリスのウォードとスターリングの書いた天地会についての著作を参考にし、フランス読者向きにアレンジしたものだ。一部史実に基づくが、かなり想像でふくらましている。日本のドライフラワーが水に浸ければまた隠された美を見せるように、読者諸兄も、この物語のなかから、隠された意味や失われたものを見つけてほしい。


 物語は、フレデリック・トリスタンならではの言葉の魔法が楽しめます。虚言が横溢し、虚と実が入り混じって、どれが本当か分からなくなる境地に引っ張り込まれてしまいます。とくに、仏教教団の管主ら一行が古寺に辿り着き、目覚めたら古寺が船になっていて、川を遡っていく様を述べたⅩⅢ章は、フレデリック・トリスタンらしい眩惑の章。川の初源にある市から赤い花の宮殿を遠望した後、まわりが霞んできて目覚めたら古寺のなかにいたという場面。しかも遠望した赤い花の宮殿は、船の中の祭壇の「11の旗で飾られた山盛りの赤飯」だったことが分かるといったところ。

 ところどころに東洋的な神秘を感じさせるフレーズが出てきます。例えば、「この世は見せかけのもの。満ちてると思うのは虚無の見せかけ、虚ろと見えるのは充満の見せかけ」(p172)、「戦いは、いつ始まりいつ終わるか、誰も知らない。満ち潮引き潮のようなものだ。終わったように見えてまた始まるのだ」(p192)、「始まりが終りと一致する。至上の龍は始源の芽の中にすでに存在しており、最初は終りの木霊である」(p204)。他に、最高権威を象徴する印璽など、西洋人から見れば、東洋の宗教や智慧は神秘的なものに映るようです。

 本作の一つの重要なテーマは、二元論(二項対立)の超克でしょうか。明と清の戦いは、真珠を争う陰と陽の二頭の龍の間の戦い、月の息子である清と太陽の息子である明の戦いに譬えられますが、この二つの対立は、さらに女性と男性、左と右、動と不動、濃密と希薄、天と地、可視と不可視など、さまざまな対立概念へと拡張されていきます。そして、この二つの戦いは、龍が争う真珠が不滅である限り終わらず、一つが満ちれば一つが欠け、一つが増えれば一つが減るというように、立場を逆転し均衡を保ちながら永続してゆくとし、人間だけが、この天と地の対立の間に橋を架け、三立へと変化させることができると主張しています。これが天地会、またの名を三合会と呼ばれる教団の根本教義のようです。

 仏陀と観音、あるいは仏陀道教の神々が喋り合ったり、動物の顔をした十二支の神々が出て来たりと、神聖な存在が俗っぽく描かれる場面も多く、仏陀が急ぎのあまり戸をノックせずに観音の家に入っていくといった場面では、思わず吹き出してしまいました(p138)。観音開きの戸だったのでしょうか。