清水茂『詩とミスティック』


清水茂『詩とミスティック』(小沢書店 1996年)


 今年に入って、清水茂を、『詩と呼ばれる希望』、『遠いひびき』、『翳のなかの仄明り』と読んできた続きで取り上げてみました。小沢書店らしい瀟洒な造りの本です。内容は、大きく、詩とミスティックをめぐってと、戦時における文学者の態度についての二つに分けられると思います。

 詩とミスティックについては、詩とミスティックの両者に共通するものを見ているわけですが、キーワードとして、夢、象徴、不可視なるもの、純粋詩キリスト教があり、また、具体的事例として、ドイツ・ロマン派、シモーヌ・ヴェイユ、ボヌフォワロマン・ロランが取り上げられていました。いくつかの論点を、私なりに理解して単純化したうえで挙げておきます。

①ミスティックとは何か:キリスト教に限らず、インドをはじめ世界共通にミスティックな思想があり、喜悦の状態や幻視が語られるが、喜悦や幻視は副次的産物であって、ミスティックの本質は、存在の奥に自己自身を超えた何ものかを感じる感覚、すなわちある種の照覚の意識にある。それは他のものに置き換えて理解することも、伝達することも不可能なものであり、詩的体験と共通するものがある。

②詩とは何か:詩の発見とは、地上的な現実を否定するのでなく、現実のなかにもう一つの世界の象徴的意味を読み、可視のものに託された不可視の意味を見てとることであるが、この発見は受動的な状態において生じるものであり、詩人自身にもこの神秘がどうして訪れたかの説明がつかない。その点でミスティックと共通するものがある。象徴にはさまざまな解釈があるが、一致しているのは、客観的な意味の背後に、不可視の深く隠された意味を含む何ものかを見ようとするところにある。

純粋詩とは何か:主題とかあらすじとか、フレーズの意味、思考の論理的な脈絡、さらには情緒にいたるまで、散文にあるすべての要素を、詩においては純粋でないとして除外していった場合何が残るのだろうか。いくつかの語やリズムと韻律といったものに鍵があるのだろうが、結局、純粋詩というものは到達不可能な目標である。純粋詩というものが詩の本質であるとしても、詩は、純粋でない要素によってしか伝えられないものではないか。

④詩とミスティックの具体例:
a.ドイツ・ロマン派の人たちとシュールレアリストたちの試みとはきわめて近いものがある。それは、夢に手段を求め、無意識の領域を踏査すること、詩の源泉でもあるような内的な感覚の確証を探ることなどにおいてである。

b.シモーヌ・ヴェイユは、耳の聞こえない人に音というものを思い浮かべることができないように、不幸を共感すること、自らのミスティックな体験を伝えることは不可能であり、物事が経験の領域にとどまっている限りは本質的に非論理的なものであると考えたうえで、何とかそれを論理的な表現に置き換えようと努力する。また有限な存在である人間は、無限な存在と対峙するとき、受動的にならざるを得ないとしている。彼女の思想の中心にはこの受動の神秘性が残るのである。

c.ロマン・ロランは、プロティノスからフランソワ・ド・サールにいたるまでの、キリスト教世界におけるミスティックたちに深い関心を寄せていた。『愛と死の戯れ』の主題も、死を通じて自らの生を成就するという考え方であり、そこには、誰もが免れ得ない個としての死こそ、全一なるものへの窮極的な帰還であり結合であるというミスティックの考えが反映している。また晩年の文章「私の告白」において、自分が実感として触れた神と、『福音書』が語る神とは明らかに違うと告白している。


 戦時における文学者の態度については、いくつかの論点がありました。
①アルベール・ベガンは、著書『ロマン的魂と夢』や『ネルヴァル』で、人間の魂の秘密の領域を探っていたが、第二次世界大戦を挟んだ10年後の彼は、変貌した。「書物とのあいだで個人的に交わされる対話のみを報告するような者による批評の機能を回復することは不可能であると思われる。このような危機の時代にあっては、批評家もまた、その責任を引き受けなければならない」と文学者の政治責任について覚醒を促すようになる。

②驚いたのは、第一次世界大戦開戦時に、「アンリ・ド・レニエが〈ゲルマンの鷲の両眼を、その雄々しい嘴で〉えぐる〈ゴールの鶏〉をうたい、マーテルリンクが義勇兵として従軍を志願し、ベルクソンは自分が会長を務めている精神科学アカデミーでドイツ攻撃の熱烈な講話を語った」という記述で、フランスも日本と同じく、文学者が愛国心を鼓舞していた様子がうかがえること。

ロマン・ロランは、第一次世界大戦前に、アルフォンス・ド・シャトーブリアンとルネ・ジレという二人の若い友が居たが、ロランが反戦の立場に立ってスイスにとどまる一方、二人は参戦したことで、友情に亀裂が入る。とくに、シャトーブリアンは、大戦終了後、ヨーロッパの若い力に期待して、ドイツへ近づいて行き、第二次世界大戦終了後、親独派として死刑宣告を受けた。ロランがそれでも、主張の違う友人たちと繋がろうとした態度には敬服する。ロランが送った手紙には、「私たちの思想の相違が決してきみの友情の妨げにならないようにとのぞんでいます」と書き送っていた。