辻昌子『「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論』

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辻昌子『「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論―世紀末的審美観の限界と「噂話の詩学」』(大阪公立大学共同出版会 2013年)

 

 何年か前にジョルジュ・ノルマンディ、先日はオクターヴ・ユザンヌと、本国のジャン・ロランに関する本を読んだ流れで、手元にあった日本人が書いたジャン・ロラン論も読んでみました。ロラン作品や先行研究、さらには関連する書物をよく読みこなし、緻密な論理で組み立てられていて感心しましたが、読み終わって世代の差を感じずにはおれませんでした。

 

 われわれの学生時代は、それまでの純文学的な作品や重いテーマを持った作品、小林秀雄のような正統的な文学評論がまだ主流ななか、異端と言われた文学や幻想怪奇小説、評論では澁澤龍彦種村季弘などが少しずつ刊行され、それをわれわれは新刊が出るごとにむさぼるように読んでいました。当時翻訳の出ていなかったM・Prazの『THE ROMANTIC AGONY』 (英語版)を教典のように崇めて読書会を開こうとしたりしました。

 

 著者の場合は、すでに幻想小説、異端評論の全盛時代に生まれ育ったせいか、逆に頽廃とか浪漫に浸るのを忌避する毅然とした姿勢があり、社会的な目線を持ち、構造主義的な手法を用いて作品を分析しているという印象を受けました。ロランの初期作品に重要な位置を占める詩にはまったく触れていないということもそのひとつです。ロランの詩的美的な評価が日本に紹介される前に、こうした評論が出版されたことは、日本の読者にとっていいことかどうか分かりません。

 

 先行研究や関連書をよく読んでいるのに驚きましたが、研究を専門にしている場合、自分の意見を素直に書くと先行研究と重なってしまうことになりかねないので、たえず先行研究に目を通さないといけない大変さがあることに気づかされました。私のように能天気に感想を書いているわけにはいかないわけです。

 

 これまでロラン作品を漫然と読んできましたが、いろんな研究を教えていただいたおかげで、ロランの物語の語りの構造や閉じられた館の意味など、作品理解をより深めることができました。小説の虚構性と謎の象徴性を重視した作家ということがよく分かりました。

 

 以下、先行研究も含め、本書の印象的な部分を少しアレンジして書いておきます。

①ロランの小説は、新聞の連載によるものが多く、必然的に細切れの短い作品にならざるをえないので、出版するにあたって、バラバラに発表された断片的な作品をひとつのかたちに繋ぎあわせているという特徴がある。

 ②ロランの一方の代表作『象牙と陶酔のお姫様』の特徴は、デ・ゼッサントに代表される私的空間に閉じこもる人物の楽園喪失物語という世紀末文学のパターンが、伝統的なおとぎ話の枠組みの中で語られているということである。

 ③19世紀の親密な個人的空間に対する関心の高まりは、近代的な大都市文化の成熟と並行して現れた。公共の場に対する個人の隠れ家としての室内をいかに書くかという問題は、芸術愛好家にとって自身の内面性を表現することでもあった。

 ④世紀末文学のなかで私的な室内に閉じこもる傾向と、謎を解決する探偵小説というジャンルが同時代に流行し始めたこととは密接なつながりがある。

 ⑤室内空間と謎との関係で言えば、閉鎖空間を外から見た場合、そこには他者の謎というものが存在し、それをあれこれ推測するところに物語が生まれる。ロランはそれをゴシップ記者としての手法で、謎を解くというより、謎を噂話として語り続けることで、巧みに話を誘導している。

 ⑥ロランはその謎を深めるために、いろいろな仕掛けを張り巡らし、何らかの障害物を設けて、謎をより魅惑的なものにしたり、ひとつの真相を次々と塗り替えて新しい真相を提示していったりする。それは謎が結局は空虚であり、それを明かすことはタブーなので、登場人物たちは噂話で謎の周辺を巡り続けることになる。

 ⑦再び探偵小説との関連で言えば、ドイルのホームズシリーズが、終盤になるにつれ謎の追求を止め、グロテスクな傾向の勝った解決のないものが急増していくというのも、同じ枠組みで考えられる。

 

 この謎を解決しようとせず、保留し続けるという態度は、まさにこの時代の象徴主義的な手法ではないでしょうか。