伊藤海彦の二冊

  
伊藤海彦『季節の濃淡』(国文社 1982年)
伊藤海彦『渚の消息』(湯川書房 1988年)


 久しぶりに伊藤海彦を読んでみました。このブログを始める前、2006年頃に、『きれぎれの空』と編著『詩人の肖像』を読んでいますが、自然の風物を織り込んだ詩人らしい抒情的な文章に魅せられたことを覚えています。今回、その期待はまったく裏切られませんでした。

 『季節の濃淡』がエッセイ、『渚の消息』は散文詩のかたちを取っていますが、ともに同じテーマにもとづく作品。というか、『渚の消息』には、『季節の濃淡』のいくつかの章を散文詩に置き換えただけと思われるものもありました。『渚の消息』は散文詩だけに短く、内容もおおまかで、味わいとしては、詳細かつ論理的具体的に語っている『季節の濃淡』の方にはるかに良質のものを感じました。


 『季節の濃淡』では、花や草木、蝶、魚、鳥、貝、海、雲などの自然を、感受性豊かに細やかに観察し、また、砂、浜辺、石段、窓、氷、火など、日常のありふれたものにまなざしを向け、その根源的な在り方を想像し、詩情あふれる文章として綴っています。

 いくつか例を挙げてみますと、

けもの道とかも味わいがあって私の好きな言葉だが、蝶道はさらに夢幻的な感じがする。さまざまな蝶の翅の絵模様やその飛翔のリズムがうかんでくるのに、道そのものの姿のない所がいい。それはいつもイメージのなかの道、空間の道だ/p10

蝶は・・・魂と呼ばれているあの私たちの中の見えない部分に似ていると思われてならなかった。ゆっくりとひらいたりとじたりするあの翅の動きが、抽出された生命の呼吸(いき)づきのように思えたし、何よりもその「一片(ひとひら)」と呼びたいようなあの軽さが、飛ぶというよりは浮遊しているといった感じを与えるからだ/p13

どの巻貝でもそうだが螺旋状の階段はいつも、それを手にするものにある幻想を抱かせる。テングニシは・・・その突起がこすれていたんでいるだけに、何か古びた城―それも今は住人のいない廃墟となった城を思わせる/p56

公孫樹・・・葉の質が厚く、その黄色が鮮やかなので陽光をうけているとき形容ではなく本当に黄金色に輝いて見える。そして、そびえている樹形そのまま金の炎となって天上へ果てもなくのぼっていくようにさえ見える/p161

 私は、草花の名前もよく知らず、鳥の区別もよく分からない自然音痴ですが、著者は、草木や花の名前もよくご存じで、その魅力を存分に語ってくれ、フジツボや貝のことも詳しいようで、蛇も含め、自然を楽しむすべを教えてくれます。こんな人に連れられて野山や浜辺を歩けば、さぞ楽しいことでしょう。

 著者は、海にも山にも恵まれた鎌倉に住んでいますが、海岸がどんどん埋め立てられ、コンクリートで固められ、自動車用道路ができ、潮だまりが消えていく様子が、随所で語られ、かつて豊かだった自然が失われて行くことを悲しんでいます。そしてそれがこの本の基調となっています。 

 ご自身の性格について触れた文章がいくつかあり、著者の姿が垣間見えたような気がしました。真っ黒になってとびまわり、一日中泳ぎ回ってるというのでなく、泳ぐのがからきし駄目で、潮だまりで一人遊ぶというのが性に合った少年で、けわしい登山はしたことがなく、丘歩きが専門で、道のなかでも小径が好きといいます。


 『渚の消息』は、湯川書房らしい瀟洒な造りの本。ここでも、失われた風景への哀惜が基調になっていました。『季節の濃淡』と共通する話題としては、昔子どもたちがよく鳴らしていた海ホオズキを懐かしむ「海酸漿」(『季節の濃淡』では「もの憂い楽器」)、満ち干きの神秘を語る「潮時表」(「こころの満干」)、海の家で食べたゆであずきを思い出す「夏の序曲」(「海辺の小屋」)、ヒメルリガイへの思慕を語る「空のかけら」(「冬の渚」)、波や風がつくる砂地の美しさに触れた「砂の画布」(「砂の言葉」)、水平線への憧れを綴った「心の傾き」(「生きている『遠方』」)など。


 もっとこの人のエッセイを読みたいですが、あらかた読んでしまったのが残念です。