伊藤海彦『旋律と風景』


伊藤海彦『旋律と風景』(国文社 1982年)


 伊藤海彦の音楽エッセイ。33の楽曲について、その旋律と分かちがたく繋がっている思い出の風景を綴ったもので、クラシック曲もあれば、タンゴ、シャンソンもあり、東京音頭や尺八曲、大薩摩節という三味線音楽まで入っています。各章のタイトルに楽曲名をつけ、体裁は音楽を起点として文章を綴っているように見せかけてはいますが、実際は、音楽をダシにした一種の青春回想録となっています。読んでいるあいだ心地よい時間を過ごすことができました。

 ひところ、よく読んでいた回顧的な音楽エッセイに連なるものがあります。松井邦雄や塚本邦雄久世光彦など、みんな私より一世代上の人たちです。共通して感じられるのは、私が聴いたこともない曲なのに、取りあげられている音楽に、なぜか懐かしさを覚えることです。この本でも、「淡き光に」というタンゴや、「讃美歌441番」、「谷間の灯」、「ジョリ・シャポー」、シャミナード「フルートコンチェルティノ」など、知らない曲がなぜか心に響き、ぜひ一度聴いてみたいと思わせられました。

 他に聞いたことがあってまたあらためて聴きたいと思った曲は、「センチメンタル・ジャーニー」、メンデルスゾーンヴェニスの舟唄」、ゴセック「ガボット」、ゴダール「ジョスランの子守歌」、「オーヴェルニュの歌」、「リラの花咲く頃」など。

 文章は、心の襞に沁みいるような、セピア色の懐古的なトーンの抒情が溢れていて、終わり方にも余韻が漂っています。どこか梅津時比古の音楽時評と似た静謐さを感じさせるところもありますが、抽象的観念的な表現はあまりなく、具体的な事柄が付随していて、物語的なところが異なっています。

 回想なので、全体が芒洋とした雰囲気に包まれていますが、それを裏付けるように、著者は、リアルな再現よりも、芒洋としたファンタジーを好むと吐露しています。次のような嘆きです。
録音と再生の両面において技術が発達して、原音をリアルに再現できる世の中になり、昔の手回し蓄音機から聞こえていたぼやけたような音や、いかにも遠くから届いたというようなラジオの音を聴かなくなったが、そうなると妙に昔の音が懐かしくなる。レコードは生の演奏とは別のものであっていいし、映画の音響は映画館という暗がりの中から聞こえる、作られた夢の世界のものであっていいのではないか。時代劇も、全体に現実感がありすぎてかえって嘘のおもしろさが失せてしまった。

 印象深い人物が登場するのも特徴のひとつです。戦前、仲間みんなでお別れに讃美歌441番を歌って兵隊に送り出したクリスチャンの友人、音楽に通暁し語るにつれて自分の言葉に酔い次第に熱っぽくなってくるという文化活動の仲間、「君は元気でね」と別れ際に言ってその半年後に自殺した原民喜、「ジョリ・シャポーが好きと言うとみんな馬鹿にするんだ」と顔を赤らめるユリイカ伊達得夫結核になり貧窮のなかで死ぬ直前まで絵を描き続けた島村洋二郎、尺八とフルートの合いの子オークラロという楽器を吹く石見綱、ピアノの大家でありながら芸術家とは縁のないような顔をしていた自由人宅孝二、拷問の傷を持ちながら意外と優しい眼をした元左翼など。また著者が新月社という出版社に勤務していたとき宇佐見英治が編集長がだったとありました。

 著者は暁星出身で、あれだけフランスの音楽や文学、映画に親しみ造詣が深いのに、どうやらフランスに行ったことがないようです。あの時代は簡単には海外へは行けなかったでしょうから、そういう人はたくさんいたと思います。それでなおいっそうフランスへの思慕が高まったと言えそうです。