:バシュメット&モスクワ・ソロイスツのコンサート

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 久しぶりに音楽の話題。先週10日にいずみホールであった標記コンサートがなかなか面白かったので書いてみます。最前列に座ったので音が大きくはっきり聞こえ、とくに低弦の音がお腹の底にずんずんと響いて心地よいひと時が過ごせました。

 お目当てはパガニーニヴィオラ協奏曲なるものでしたが、それは若干期待外れ。で、なにが良かったかというと、武満徹の『三つの映画音楽』より第三曲「他人の顔」と、アンコールで演奏されたシュニトケポルカ」が圧巻。

 いずれも現代音楽のジャンルに入るものと思いますが、1920年代ごろからヨーロッパで流行したタンゴやジャズの雰囲気があって、武満作品にはガーシュインピアソラの面影があり、シュニトケにはサロン・オーケストラやジブシー楽団の遊び心が横溢し、ラヴェルドビュッシーの歯切れの良さも感じられました。現代音楽もこんな感じなら大歓迎です。

 ちょっと思いついたことですが、18,9世紀のクラシック音楽と現代音楽の関係が、ちょうど散文と詩の関係に例えられるような気がしました。というのは、大ざっぱに言ってしまえば、クラシック音楽の核心は、メロディを軸にソナタ形式などの構造をもって展開するというところにあり、その展開(語り)の手順によって魅力ある世界を構築しようとするのに対し、現代音楽は、一瞬の響きや輝きに存在意義を見いだそうとしているように思えるからです。それは散文が話の展開に主を置き、詩では一語一語の言葉が重要であるのと符合します。

 現代音楽に慣れていない一般の聴衆にとって、だいたいの現代音楽が退屈に感じられるのは、一瞬の響きの緊張感が持続しないことにあると思います。そう考えると、いつも散文と詩の関係で言っていることですが、現代音楽で曲が長いということは、詩が長いということと同様、本来矛盾するものであるはずです。今回の両作品がとても魅力的だったのはその短さにあると言ってもいいと思います。そういう風に短い現代音楽に徐々に慣れていけば、われわれの耳も現代音楽になじんでくるに違いありません。

 パガニーニヴィオラ協奏曲は、原曲がギターと弦楽による四重奏の第15番で、それを協奏曲の形に編曲したとパンフレットに書いてありました。期待外れと書いたのは、協奏曲にしてはヴィオラ独奏があまり目立たず、しかも座席の関係か(第一ヴァイオリン集団に遮られていた)、バシュメットの練習不足か、音の切れがあまりよくなかったのが理由。これなら四重奏で聞いた方がよかったかもしれません。

 メインのチャイコフスキー「弦楽セレナード」はさすがに堂々としたもので、コンサートを締めくくるにふさわしい力の入った演奏でした。