:吉田正俊『愚者の楽園』


吉田正俊『愚者の楽園―人魚・魔王・そして英語再入門』(花曜社 1986年)


 『西と東の狂言綺語』に続いて読んでみました。あちこちの雑誌に掲載された随筆を集めたもので重複が多い。内容は幅広く、旅行を中心としたもの、言葉に関するもの、塚本邦雄論、グルメや生活文化に関するもの。文学から、美術、音楽、料理、服飾にいたるまで、いろんな分野に通暁していて、文学について言えば、英文学者なのにフランス語やフランス文学への興味が尋常ではありません。息子がプルースト学者の吉田城というのもうなずけます。

 冒頭の「北欧の海から南欧の海まで」という旅行を中心とした章でも、イギリスよりもフランス、ベルギー、オランダへの愛着が強いという印象。ボッスの生まれ故郷のオランダの町を訪ねたり、アンソール美術館を見にベルギーのオステンドへ行き牡蠣を食べたり、アントウェルペンの動物園で人魚を見たり、また南フランスのセットにあるヴァレリーの墓に詣でたり、マントンやルーアンにも旅しています。

 ビュトールの『心変わり』が鉄道文学で、主人公がパリから乗ったローマの恋人のもとへ向かう列車の進行にしたがって物語が展開すると紹介されていました。同じように列車の進行とともに語られる物語で感銘を受けたジャン・ミストレールの『パリ東駅』を思い出しました。こちらはストラスブールへ向かう列車の各駅ごとに降り立ち、第一次世界大戦の激戦の回想に耽る老人の物語でした。

 また、ベルギーのオステンドやフランスのディエップはともに飛行機や海底鉄道のない時代にイギリスとの海洋交通で栄えた港町で、それぞれ独自の文化を築き、世紀末から20世紀初頭の文学芸術の舞台となったと紹介されていました。オステンドはまたジェラール・プレヴォの幻想短篇の舞台としてよく出てくるところです。行ってみたくなりました。

 この本でとりわけ刺激を受けたのは、「美しい意味のない一行は、それより美しくない意味のある一行より価値がある」というフロベールの言葉を引用して、塚本邦雄の文学は「美しくて意味のある一行」だと称揚しているところです(p171)。フロベールの真意はともかく、私は「美しい意味のない一行は、美しくて意味のある一行より価値がある」というのが本音だったと想像します。その美学が「美しい意味の曖昧な一行」の象徴主義につながっていくわけです。

 塚本邦雄の美しい詩が引用されていました。「先に参ります。もう待ち切れません。/黒髪が灰色に變らぬ前に私は黄泉へ。/朝日の中で私を探してもそれは無益。/残つてゐるのは石の面の爪の跡だけ。/後からいらつしゃい 髪が砂を摺り、/かすかにゑがいた筋を心にたどつて」(p172)。『定家百首』のなかの塚本邦雄による現代訳だそうですが、なかなかの味わいです。『定家百首』も読んでいますが、覚えておりませんでした。


 その他いくつか印象に残ったフレーズや知り得たことを記しておきます。
読書とは読書人の教養の深さに正比例しながら楽しむことだ/p129→それぞれの楽しみ方があるということですね。安心しました。
「詩歌とは静かなるところにて思ひかへしたる感動なりとかや」(藤村)/p190
鬼拉体・・・恐ろしいと思った鬼も実は鬼瓦で、「松の下紅葉」もあら美しや、と和らげてしまう・・・これは修辞法でいうベイソス(漸降法)の一種・・・旧来の鬼拉体の裏をかいて、読者をあっと驚かせるのは、西欧文学に多い漸層法/p192


 「花言葉」があるのと同様に「扇言葉」があったそうです(p231)。これは、女性の扇の持ち方、頬とか唇とかどこに当てるか、どんな扇ぎ方をするかにすべて意味があるということで、24もの扇言葉が解説されていました。これを守っていては、本当に暑い時にどうやって扇げばいいのか女性たちは悶絶してしまったことでしょう。