内田百閒『冥途・旅順入城式』


内田百閒『冥途・旅順入城式』(新潮文庫 1943年)


 「幻想文学46 夢文学大全」に収められていた藪下明博「夢のリアリティー」で、内田百閒の『冥途』が紹介されていて、面白そうだったので、読んでみました。『冥途・旅順入城式』は、学生の頃から、幻想小説の必読文献として購入はしていましたが、実はまともには読んでおりません(と思う)。もう50年以上も前の話なのでよく覚えてませんが、何篇かはちらっと読んだようで、漱石の『夢十夜』の雰囲気に似ているという印象を受けた記憶があります。

 今回、50年以上も積読をしていた汚い本を取り出して、読んでみると、これがなかなか私の趣味にあっていて面白い。全47篇ありますが、芒洋とした雰囲気の彷徨譚という形の作品が多い。評者たちからは夢文学として語られていますが、実際に夢を見た話や夢という言葉が語られているものは「菊」、「五位鷺」、「矮人」、「山高帽子」、「藤の花」、「遊就館」、「影」、「映像」の8篇しかなく(数え違えてるかも知れないがいずれにせよ少ない)、夢の中のできごとのような印象を抱かせる作品ということのようです。

 各篇に通ずるいろんな共通要素があります。これも数え方が主観的なので、大まかな参考として捉えていただければと思いますが、
①なぜか歩いている話が多いこと。「花火」、「盡頭子」、「鳥」、「道連」、「柳藻」、「支那人」、「短夜」、「石疊」、「白子」、「坂」など、18篇に歩く場面がある。いきなり冒頭から歩いている場面から始まったり、どこを歩いているか分からなかったりする。夜だったり、浜辺だったりする。とくに『冥途』のなかに多い。

②登場人物がよく泣くこと。「花火」、「木靈」、「道連」、「支那人」、「短夜」、「疱瘡神」、「冥途」、「流渦」など、15篇に見られる。女が泣くパターンが多いが、私が泣くこともある。なぜ泣いているか分からない場合も多い。

③酒が好きと見えて、酒を酌み交わす場面や酒席がよく出てくる。「遣唐使」、「矮人」、「先行者」、「蘭陵王入陣曲」、「藤の花」、「山高帽子」、「遊就館」、「影」、「映像」の9篇。これは、『旅順入城式』の後半にとくに多い。

④困った状況に陥って呻吟すること。困った状況に付随するものだが、人に見られる恥かしさ、小心さが垣間見える。「盡頭子」、「件」、「流木」、「支那人」、「短夜」、「石疊」など、10篇。『冥途』のなかに多い。『旅順入城式』になると、ある状況に陥るが、切迫したものではなくグロテスクでどこかユーモアが漂い、「困った」という感じにはならない。

⑤あるものが一瞬違ったものに変身する。小さな人間と思ったのが山蟻であったり(「山東京傳」)、少女が婆になったり(「柳藻」)、見物人が唐黍になったり(「石疊」)、犬の鼻の臭いのする女が獣になったり(「遣唐使」)、山が大きな鯉となったり(「鯉」)、女が牛らしきものになったり(「藤の花」)、映画を見ていていつのまにか映像の中で歩いている(「旅順入城式」)、寺だと思っていて朝起きたら山の窪みに寝ていた(「短夜」)など。

 ほかにも、見覚えのない人が顔見知りのように声をかけて来たり(「秋陽炎」、「遊就館」)、見覚えもない人と一緒に歩いたり(「坂」)、居ないはずの兄が声をかけて来たり(「道連」)、よく見るとどこかで会ったことがあるような気がしたり(「花火」)、牛の顔が自分の顔のように見えたり(「石疊」)、自分の姿が見えたり(「矮人」、「映像」)、どこからともなく遠くから声とか叫びが聞こえて来たり(「遊就館」、「猫」)、短篇集ではありますが、こうした雰囲気を繋げていくことで、全体でひとつの神話的世界を創りあげている感じがします。私自身の経験から考えますと、内田百閒の夢のような世界は、泥酔して我を忘れたときの芒洋とした存在感に通じるものがあるように思います。おそらく百閒もそうした経験をベースに書いているのではないでしょうか。

 とくに異様な感性が感じられて、傑作と思ったのは、男と逃げるように去って行った妻を追いかけていると、大勢の人々が群れていて、全員が片足を上げて身体が同じ方に傾き、地響きをさせながら下ろし、また反対の足を上げて、という奇怪な仕草に巻き込まれる「波止場」、ひょんなことから馬のお灸をする医師の弟子になってしまうが、医師とその弟が馬のような長い顔をしているという「盡頭子」、大勢の盲人が公孫樹のまわりで揉み合ううちにみんな背が低くなり地面すれすれになるという「銀杏」、下っても坂、下ってもまた坂があり、坂の下に小さな二人連れがつねに見えるという何かしらだまし絵風の「坂」、口の中に毛が生えて喋れなくなったが、無理をして女を呼び止めようとしたら毛が顎のあたりまで垂れてしまう「流渦」。

 さらにまた、居ないはずの兄から兄さんと言ってくれと泣いて懇願されるうちに、懐かしさのあまり兄さんと言いながら取り縋ろうとしたら居なくなっていたという「道連」、4,5人の連れの話に聞き耳を立てていると、その中の一人が亡き父の声とそっくりで、自分の幼い頃の話をしているので懐かしくなり後を追う「冥途」の懐旧の感覚も捨てがたい。寺で水を打ったように群衆が注視するなか参拝をし、坊主から重たい賞品を貰って帰ろうとしたら、大きな鳥に追いかけられ群衆の中を逃げ惑うが、気がついたら群衆は唐黍だったという「石疊」、仕事の口を頼みに歩く先々で不幸が起こり、ふと自分の影を見ると変な形をしていたので、自分は死神かと思う「影」の奇妙な感覚もいい。

 古典的な怪奇趣味が感じられたのは、狐が化けた女を糾弾するあまりその赤ん坊を殺してしまい、寺の住職に引き取られて、あの赤子は本物の人間だったかと懺悔するが、朝起きてみると山の窪みに座り込んでいて、すべてが狐に騙されていたことを知る「短夜」、見知らぬ大尉が友人の出兵を祝う酒席に闖入した数日後、出兵の日に友の姿が見えないので家を訪ねたら、2週間前に出兵していたことが分かるが、そう言えばあの大尉は戦争記念館から抜け出てきたような黄色い手をしていた、あの二人は死人だったのかと思いかえす「遊就館」。

 まだまだ見落としているところ、言い足りないところがあるような気がしますが、今回はとりあえずここまでで。