Frédérick Tristan『Le dieu des mouches』(フレデリック・トリスタン『蠅たちの王』)


Frédérick Tristan『Le dieu des mouches』(CHRISTIAN BOURGOIS 1974年)


 引き続きフレデリック・トリスタンを読んでみました。10年ほど前、パリのLibrairie Henri Vignesという古本屋で1ユーロで購入した本。手紙文が少し挿まれるだけで、あとは全篇日誌の形で叙述されています。これまで読んだトリスタンの作風とはがらりと変わって、館の主人、その妻、召使、女中の登場人物4人が館の閉鎖空間のなかで繰り広げる愛憎劇で、それぞれの人物の思惑の激しい振幅、感情の揺れ動きがこの物語の骨格をなしています。

 題名の「蠅たちの王」というのがどういう意味か、初めは分かりませんでした。自分の館の中でひとつの宇宙を創り、神のように振舞う主人が登場するので、この男のことを指しているということはだいたい分かりましたが。「mouche(蠅)」という言葉が最初に出てきたのがp134。ここでは字の汚さを表わす言葉として使われていました。「dieu des mouches」という言葉がようやく出てきたのがp188。ここでは、「もし私が神だったとしたら、神を崇める者を拒否する謙虚な神となる。彼らは自分たちの誤りに気がつくだろう。だから蠅たちの神になるのだ」という文脈で出てきます。

 次に、p202には「mouches comme nous somme(我々のような蠅)」という召使の言葉があり、主人に従属している自分たちのことを蠅と呼んでいることが分かります。そしていよいよ、p237には、同じく召使の「Alexandre, c’est le Diable. D’ailleur, sais-tu ce que signifie Belzébuth ? Le Dieu des mouches. Nous sommes les mouches…」という言葉があり、主人のアレクサンドルが悪魔で、その悪魔ベルゼブブというのは蠅の神のことで、自分たちはその蠅だと明言されています。ネットで確認すると、ベルゼブブはヘブライ語で、「蠅の王」もしくは「糞(山)の王」という意味だそうです。そう言えば、読んでませんが、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』というのが集英社の世界文学全集のなかにあったことを思い出しました。同じ意味だと思います。


 ネタバレ覚悟で、簡単なストーリーの紹介をしてみます。
日記を書いているのは、館の主人アレクサンドルと結婚したばかりのエリザベット。結婚して1年近くにもなるのに、一緒に食事をしたこともなければ、外へ遊びに行くこともなく、ましてや夜一緒に寝ることもない。主人の寝室には立ち入りを禁じられている。主人は、27歳年長で、政治のことに没入しているらしい。結婚前からの召使エマニュエルと女中が同居している。ある日、主人の寝室の鍵が置いてあったので、中に入ってベッドに寝ているところを、召使に見られる。

数日後、ようやく主人と二人で夕食の席に着くことができた。ほどなく若い娘ダニエルが交代の女中としてやってくる。同じ年ごろなので気やすく喋り合え嬉しくなった。一方、主人は政治の世界から足を洗うと言い、これからは館に籠って口述筆記に専念すると宣言した。毎朝5時起床、5時半から10時まで口述筆記、昼食後お喋りの後、17時まで口述筆記、夕食後3回召使とチェスをして22時頃に就寝、という身勝手なスケジュールだった。

翌日からさっそく口述筆記が始まったが、それは想像以上に過酷かつ陰湿なものだった。召使はエリザベットに同情するとともに、愛を告白し、それが叶えられないと知ると、今度は、禁断の部屋に入ったことを主人にばらすと脅迫に転じ、1週間後に愛を受け入れるかどうかの返事を迫られる。さらに追い打ちをかけるように、新しい女中から主人と密通したことを打ち明けられる。主人もやってきて、女中との密通を認め、女中とは単に肉欲的な関係で、お前には伴侶としての高尚な別の役割があると、妙な論理で諭される。

召使との約束の期日が来たが無視した。しばらくすると、主人が怒ってやってきて、禁断の部屋に入ったからには、この館を出て行くのだと宣告される。絶望したエリザベットは召使に縋りつき、何でも言うことを聞くから主人に取りなしてくれと頼み、深夜密会することを約す。その後主人がやって来て、お前に試練を与えただけだと態度が豹変した。深夜召使のところへ行くと、あんたが来る場所じゃないと突き返される。どうなっているのか。

女中が告白しに来た。密通したというのは嘘で、主人からそう言えという命令だったと。実は、彼女は2年前から主人と知り合っていて結婚を約束されていた。エリザベットと結婚したことを知って取り縋ると、女中としてなら家に置いてもいいと言われて来たという。

主人の気が変わったのか、自分の部屋に招じてくれた。そこには世界中から集めた護符、仮面、神像が所狭しと並べられ、オルガン室には石棺があった。次の日、主人は、これまでの口述筆記をすべて燃やした。その10日後、召使が庭に石棺を埋める穴を掘っていた。主人は本や荷物をまとめ、ここを去ると言う。石棺を庭に運ぼうとする途中、主人は脳溢血を起こしたのか、麻痺状態になる。エリザベットは赤子のようになった主人を見て、解放された気分を味わう。

女中は主人が廃人になったことにショックを受けたうえ、エリザベットから、主人は結婚をちらつかせながらあんたを弄んだと言っていたと告げられ、飛び降りて死んでしまった。館に二人だけとなったエリザベットと召使はお互いの欲情に誘われ、裸で抱き合うが、気がつくと主人が幽霊のように立って見ていた。麻痺したというのは演技だったのか。翌日の口述筆記を命じて主人が立ち去った後、召使はすぐここを出ようと言い、エリザベットが逡巡しているうちに、召使は主人を追いかけて殺してしまう。エリザベットはどうしても残ると言い張って、召使は館を去り、残されたのは一人。


 登場人物の4人が、互いに相手の思惑を探り、意見を次々に変え、お互いの立場も逆転に逆転をくり返しながら、物語が進行していきます。とくに性描写があるわけではありませんが、ねちねちしたポルノ小説のテイストがあります。心理的SM小説と言えばいいでしょうか。

 主人アレクサンドルの観念的で厳格な王のような振舞いがこの物語の原動力となっていますが、これは昔風の男尊女卑の世界を反映しているのでしょう。西洋の方が男女平等を早くから実践し、女性を大事にする文化があるように思われがちですが、実際はとてもひどく未だに男尊女卑が根深く残っているような気がします。いつでも逃げることができるのに、逃げられない心理にさせられてしまうのは、一種の恐怖による支配で、それが神ということなんでしょう。

 エリザベットは、初めは罠にかけられ、煩悶し、服従しますが、この場所で最後まで生き抜く決意をし、徐々に主人アレクサンドルと立場を逆転させて、闇の女王となっていく様子がうかがえます。何が本当で、何が虚偽なのか、分からなくなる曖昧模糊とした世界を描いていますが、それが幻想小説というか、一種の眩惑小説と言うべき味わいとなっているように思います。