ボルノウ『気分の本質』

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O・F・ボルノウ藤縄千艸訳『気分の本質』(筑摩叢書 1973年)

 

 このところパソコンが壊れて暗い気分になっておりますが、それでこの本を取り上げたわけではなく、この本を読んだのはまだ壊れる前のことで、感覚やリズム、身体など哲学の周縁的な問題への一連の興味からです。著者は「日本語版へのまえがき」で、第二次世界大戦の重苦しい気分のなかで、幸福な気分について考えたことがこの本を書いたきっかけだと告白していますし、「あとがき解説」で梅原猛が、戦後ハイデッガーを研究し死の哲学の暗い洞窟のなかにいたとき、この本から射してくる一条の光に救われたと述懐していました。この本には前向きな明るい気分があるように思います。

 

 理性とか合理性への信頼が崩壊し、哲学が探求すべき「人間の固定的本質などというものは存在しない」という認識を背景に、生のより深い基盤を探ろうとする当時の哲学界のなかで、ボルノウは、ハイデッガーが不安を軸に展開した哲学を引き継ぎながら、新たに喜びや愛、信頼に価値を見出そうとしたということのようです。

 

 いかんせん、本を読みながら感想を記していた記録が全部消えてしまい、朦朧とした頭では半分も思い出せませんが、この本の前段では気分の分類と特徴を述べ、後半では、メスカリンで人工的に作り出された陶酔や、プルーストの至福感など、個別の例を解説していたように思います。もう一度ページを繰ってみると、おおよそ次のような指摘が目に留まりました。

 

①気分はもともと音楽的な心の状態を示すものであり、一定の対象を持たない、全体を包む色調である。気分を表現する言葉が「晴れ晴れと」とか「曇った」というような天候に関するものであることがそれを示している。人は常にある気分に支配されており、外部のものがいかに見えるかということはその気分によって条件づけられている。人は幸福な気分を自ら生み出すことはできず、得ようとすればするほど遠ざかっていく。また気分は突然襲ってくるもので、それに気づいたときはすでに内部に行きわたっている。気分には大きく分けて高揚した気分とふさいだ気分がある。

 

②昂揚した気分には、喜びや愉快と、満足・幸福・至福の二種類がある。昂揚した気分の時は他人に対して心を開く。幸福な人は愛することができるが、憎しみを持つことはできない。喜びや愉快は、真剣さの欠如とみなされることもあり、無思慮や放埓に至ると、抑制や理性的思慮を押しのけることとなる。

 

③ふさいだ気分には、無気力さ、絶望など、生命感情の弱まった状態の気分や、悲哀、諦め、運命への服従など、不満、不機嫌さの気分がある。真面目さはふさいだ気分の中に数えられる。悲哀、憂い、苦悩、精神的肉体的苦痛は人を孤独へ追いやり、不愉快にし、不信、憎しみ、嫉妬などの卑屈な気分を起こさせ、人を委縮させる。

 

④この二つの大きいグループ以外に、敬虔、荘重や壮麗の気分がある。また風景的表現で、夕方の気分、月光の気分、また朝の気分などがある。日中の明晰さは気分にとってあまり好都合ではない。人には自らの気分に浸って楽しむということがある。甘い感傷、淡い悲哀、憂鬱がそれである。祝祭は日常の味気ない灰色と対立する。

 

⑤ほかに、気分と同様な意味で使われる言葉に「機嫌」がある。人は良い機嫌になったり悪い機嫌になったりする。動揺によって態度が揺れ動く人間を「機嫌的」(日本語では「気分屋」?)と言う。また気分(機嫌)は損ねられるものである。気分づけられない状態に無色の退屈というものがある。

 

⑥人工的に昂揚した状態を作り出す実験があり、メスカリンによる陶酔の例では、出来事がばらばらに並列するというように時間の感覚が変容し、空間は双眼鏡で覗いているように拡大し、色は光度を増し、聴覚も感受性が著しく高められるということがある。

 

プルーストの時間体験の特色は、小さい目立たないきっかけから至福が突然に訪れるというところにあり、過去の体験が当時にはなかった完全性を持って現れるということにある。その至福感は永遠性の意識を持っているが、ただ過去へ戻ることを指示しているにすぎず、受動性の地平にとどまるという弱点がある。

 

⑧それに比べて、ニーチェにおける「偉大なる真昼」の体験は、新しい生がはじまる決定的な転回点である。時間性を超越することは、存在すること一般の重荷的性格を超越することでもある。このような幸福の瞬間だけが創造的な性格を持っている。

 

⑨昂揚した気分は展開を行なって生の豊かさを形成し、ふさいだ気分は批判的作用をもって吟味を行ない、形態の固定性というものを形づくる。理想は、昂揚した気分とふさいだ気分の交互使用によって、それぞれの持つ長所を統一しバランスを取るということではないか。

 

 気分というものは、自分のなかに生まれるものである一方、外部からやってくる抗しがたいものという面もあります。普段は自らの気分は気にしていませんが、いったん意識すると、気づくことでその気分が加速されるという性質があるように思います。つい気分に捕らわれてしまいがちで、気分の切り替えが自由自在にできるのが理想ですが、なかなかそう簡単にはできないところが情けない。

 

 この本はあくまでも個人の内面に起こる気分を問題にしていますが、社会的な気分というものも考えてみると面白いかもわかりません。どうやって形成されていくのか。経済やメディアの影響、政治の意思決定との関係。一筋縄では行かなさそうです。